「街の上で」今泉力哉
今泉力哉は同じ映画を撮り続ける。それは、エリック・ロメールのようでもあり、ホン・サンスのようでもある。淡々と進む恋愛群像劇。
2ショットや引きの画面が多く、アップは多用しない。登場人物の人物関係はいろいろと狭い世界で繋がっている。ラストの朝の別れかけの3組の男女が鉢合わせする場面は笑ってしまう。狭い街ですれ違う男女。
女にフラれた若葉竜也は、ふとライブハウスに立ち寄り音楽を聴いていると、涙を流す美女を見つめている。その美女とタバコを貸し借りを通じて新たな関係が始まるかと思いきや、何も始まらずに吸わないメンソールのタバコだけが手元に残される。あるいは、ラーメン屋のカウンターで彼が見つめる女性は誰かと思っていたら、のちに彼の口から、童貞だった時に出会った風俗嬢だったことがわかる。その彼女とも何も始まらない。そんな風にして男と女はすれ違い、時に映画撮影で初めて会った女の子の家に招かれ、一夜を共にしたりする。それでもセックスには発展しない。友達関係だとなんでも気軽に話せる関係なのに、恋人関係になると、嫉妬したり、独占したり、浮気したり、何かとうまくいかない。それが「好き」であることの証拠だったりもするわけで、そんな面倒臭さこそが人間関係の面白さだ。余計なひとことを言って、相手を傷つけて、そのあとで謝ったり、勝手に役がもらえると誤解して役作りしたり、映画出演が「愛の告白」だと誤解したり、そんな些細な日常のやり取りが面白いのだ。何かと淡白にあっさりやり過ごそうとする今どきの若い人たち。それでも面倒くさい人間関係や恋愛。そんな関係を描くのが今泉力哉は上手いのだ。大袈裟な劇的な物語ではなく、たわいもないささやかな日常のやり取りの滑稽な可笑しさが描かれる。
2019年製作/130分/G/日本
配給:「街の上で」 フィルムパートナーズ
監督:今泉力哉
脚本:今泉力哉 大橋裕之
製作:遠藤日登思 K・K・リバース 坂本麻衣
プロデューサー:髭野純 諸田創
撮影:岩永洋
美術:中村哲太郎
音楽:入江陽
主題歌:ラッキーオールドサン
キャスト:若葉竜也、穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚、芹澤興人、成田凌
☆☆☆☆4
(マ)
「人新世の『資本論』」斎藤幸平
国連のSDGsの取り組みや「緑の経済成長」と言われるグリーンニューディール政策や従来の左派的な主張や反緊縮政策や公共投資や富の再分配だけでは、環境破壊は止まらないと指摘する。格差を拡大した新自由主義だけが問題なのではなく、経済成長そのものを見直し、資本主義システムを見直さないとダメだという主張だ。
先進国は、グローバル・サウスを犠牲にして「豊かな」生活を享受している。資本主義とは、「外部化社会」を作り出し、そこに様々な負担を転嫁してきた。そのグローバル化が地球の隅々まで及んだために、収奪の対象となる「フロンティア」は消滅した。それは労働力だけではなく、地球環境の収奪に及んでいる。資源、エネルギー、食料もグローバル・サウスから奪われており、その無限の経済成長をやめない限り、地球環境の破壊は止まらない。人類の経済活動が地球に与えた影響があまりにも大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世(ひとしんせい)Anthropocene」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
ガソリン自動車から電気自動車に転換すると言っても、カギとなるのはリチウム電池だ。スマホやパソコンだけでなく、電気自動車にもリチウムイオン電池が不可欠であり、そのためにはレアメタルが大量に必要となる。リチウムはアンデス山脈沿いの地域に埋まっている。そして、アタカマ塩原のあるチリが最大の産出国だそうだ。また、コバルトもリチウムイオン電池には必要で、コバルトの約6割がアフリカの最貧国、コンゴ共和国で採掘されている。いずれにせよ、電気自動車になってCO2排出が削減されても、経済成長をし続ける限り、労働力の搾取と地球的な環境破壊は形を変えて進行する。
広井良典の「定常型社会」や佐伯啓思も、資本主義社会を維持したまま、社会民主主義的な福祉国家政策によって、新自由主義の市場原理主義を飼い馴らそう、そこに持続可能な理念を加え、脱成長・定常型社会への移行が可能になるという考えだ。しかし、斎藤幸平はそのような楽観的予測を否定する。資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である。繰り返し投資して、財やサービスの生産によって新たな価値を生み出し、利益を上げ、さらに拡大していく。目標実現のためには、世界中の労働力や資源を利用して、新しい市場を開拓し、わずかなビジネスチャンスも見逃さない。
近年進むマルクス主義の再解釈の鍵は<コモン>の共有にある。社会的に管理されるべき富、それは水や電力、住居、医療、教育といった公共財を自分たちで民主主義的に管理することを目指すものだ。マルクスにとってコミュニズムとは、ソ連のような一党独裁国営化体制を意味するものではなかった。地球を<コモン>として管理する考え方。「資本主義による近代化が、人類の解放をもたらす」という「生産力至上主義」の楽観的な「進歩史観」から、後期マルクスにおいてはエコロジカルな理論的転換があるのだという。人間は「労働」によって、「人間と自然」との関係を取り結ぶ。マルクスは「資本論」刊行以降、熱心に自然科学の研究を続け、ヨーロッパ中心主義から決別し、晩年は共同体研究に熱中していたという。そして「持続可能性」と「平等」についての考察を深めたというのだ。
さて、「脱成長コミュニズム」とは、どのように成し遂げられるのか。<コモン>の市民営化の事例として、「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」の存在を挙げる。「自由の国」を拡張するためには、無限の成長だけを追い求め、人々を長時間労働と際限のない消費に駆り立てるシステムを解体し、総量としては、これまでより少なくしか生産されなくても、全体としては幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての「自己抑制」を、自発的に行なうべきだ、とする。闇雲の生産力を上げるのではなく、自制によって「必然の国」を縮小していくことが、「自由の国」の拡張につながる、と本書は説く。
トマス・ピケティは、「21世紀の資本」の考えから転換し、「飼い馴らされた資本主義」ではなく、「参加型の社会主義」を主張している。単なる再分配にとどまらない社会主義、生産の場における労働者の自由が不可欠だという主張は、本書の主張とも重なるという。労働のあり方を変えることが、自然環境を救うために決定的に重要なのだ。
誰でも無料に食べてよい「公共の果樹」を植えているデンマークのコペンハーゲンの事例、デトロイトで始まった荒れ地を復活させる都市農業、エッセンシャル・ワーク重視の流れ、バルセロナで進められている「フィアレス・シティ」、自治体の気候非常事態宣言。協同組合による参加型社会が生まれつつある。国境を超える自治体主義は「ミュニシパリズム」と呼ばれ、グローバルに展開しだしている。「食料主権」を「資本」から取り戻し、グローバル・サウスから学び、顔の見える関係であるコミュニティや地方自治体をベースにして信頼関係を回復していくしか道はない。はてさて、この夢のような<コモン>」の市民営化は、本当に成し遂げられるのだろうか。今後の議論が深められていくことを期待したい。
「生きちゃった」石井裕也
商業的な制約もなく自由に撮った作品なだけに、むき出しの魂がぶつかり合うような重く切なく哀しい作品。なぜ人はこれほどまでに不器用なのか。オープニングの2人の男子学生と1人のセーラー服の女の子が、アイスを分け合って歩く後ろ姿だけでなんだかせつなくなる。女の子が一人の男の子の肩に手をかける。そこに3人の微妙な関係が浮かび上がる。誰もが経験したかのような、かけがえのない美しき時間。そして時間が経過し、電車が走る夜のガード下。男(仲野太賀)は無表情のまま、路面標示の字の上を辿って歩く。石井裕也監督は『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』でもそうだったが、夜のせつない時間を切り取るのが上手い。なんだか人生を持て余しているような、行き詰っているような空気感をうまく演出している。仲野太賀の無表情さがこの映画のトーンを作っている。上海国際映画祭にて「B2B(Back to Basics)A Love Supreme」=「原点回帰、至上の愛」という新しいプロジェクト。香港国際映画祭(HKIFFS)と中国のHeaven Picturesが共同出資し、各映画製作者に同じ予算が割り当てられ、「至上の愛」をテーマに映画製作の「原点回帰」を探求するというコンセプトのもと、アジアの名だたる監督たちが各々映画作りを行う台湾の名匠ツァイ・ミンリャン監督(『愛情萬歳』『河』『西瓜』『楽日』)、韓国系中国人のチャン・リュル監督(『キムチを売る女』)、中国のヤン・ジン監督『ホメられないかも』)、マレーシアのタン・チュイムイ監督(『Love Conquers All』)、香港のフィリップ・ユン監督(『九龍猟奇殺人事件』)、そして日本の石井裕也監督。
主人公の仲野太賀は、自分の本当の気持ちを言葉にできない。「日本人だからかな」というつぶやきが何度か繰り返されるが、そういう問題ではないだろうと思う。この生活から抜け出そうと、親友の若葉竜也と外国語を習って起業しようと思っている。「英語なら、本当のことがすんなりと言えるのにな」、「妻と娘のために庭付きの家を持ちたい」と夢を英語で語る。そんな思いを持ちながらも、伝えられないことが積もり積もって、関係は壊れていく。
セーラー服姿だった女の子(大島優子)は、仲野太賀と結婚したが、彼女はもう一人の若葉竜也の方が好きだったことが後からわかってくる。定番のうまくいかない男女のトライアングル。仲野太賀は、婚約していた女性との関係を断ち切ってまで、大島優子を選び結婚した。しかし、結婚して5年、二人の間に女の子が生まれたが、関係はうまくいっていなかった。自分の愛情をうまく表現できない仲野太賀に妻の大島優子は不満を抱え、ひたすら我慢していた。そして、別の男とセックスをするようになっていた。その場面を夫に目撃され、、二人は別れる。別れ話の場面でも無表情な仲野太賀。大島優子もとてもいい。新しい男(毎熊克哉)とも行き詰りつつ、元夫の仲野太賀にお金の振り込みを頼む電話の場面など、なんともやるせない。仲野太賀の実家の雰囲気もまたいびつで、嶋田久作、伊佐山ひろ子、パク・ジョンボムの演技が、その病的な感じをうまく表現している。二人が別れた後の展開は、かなり重い衝撃の事件が次々と起き、彼らの人生の歯車が狂っていくのだ。
言葉にできない想いは誰にでもある。その想いが伝わらないことで、こんなにも取り返しのつかないことになるなんて、人生はあまりにも理不尽だ。かけがえのない大切なものを失ってから、そのかけがえのなさに気づく。言葉にすることの大切さ、伝えることを諦めてはいけない。そんな思いがこの映画には溢れている。だからこそ、娘を迎えに行くラストの仲野太賀の叫びはせつない。娘との手を使った犬の影絵の場面が効果的。秀作だ。
2020年製作/91分/R15+/日本
配給:フィルムランド
監督・脚本・プロデューサー:石井裕也
共同プロデューサー:永井拓郎 北島直明
撮影:加藤哲宏
照明:上嶋ゆきお
美術:高橋努
音楽:河野丈洋
キャスト:仲野太賀、大島優子、若葉竜也、パク・ジョンボム、毎熊克哉、北村有起哉、原日出子、鶴見辰吾、伊佐山ひろ子、嶋田久作
☆☆☆☆4
(イ)
ドラマ「俺の家の話」最終回が見事だった!不在の「空」的存在
遺産相続狙いの結婚詐欺話でも、老人認知症介護の家族の再生の物語でとどまることなく、能とプロレス、仮面(「能のお面のように自分がない」こと)、生と死の交わる空間、能舞台、プロレスのリング、墓の前、家族の食卓の特権的空間の演出、そして生と死の境界を越えて不在の死者が家族をつなぐ物語としてアクロバティックに展開した最終回は本当にお見事でした。
寿一は「自分がない」男であり、「空」の存在。誰でもないからこそ、誰にでもなれる。だから、能の面をかぶり、プロレスの覆面をかぶり、バラバラになった家族をつなぐ。生と死が出入り自由となる特権的空間を見事に創出したドラマは、演劇出身である宮藤官九郎ならではだろう。演劇の舞台こそ、生と死が出入り自由の空間であり、まさに能舞台とはその特権的空間を創出し続けている伝統芸能である。その「場」にこだわり、不在を私を通して、異端な人々が集える場が必要され描いた。発達障害的な学校不適応児童から、ラッパー、ダンサー、プロレスラー、落ちぶれた伝統芸能者、不倫しまくりのろくでなしの父親、血のつながらない兄弟たち。ひねくれ娘やモテない弁護士、そんな異端者たち、社会不適応者たちが集える場こそ、今必要であり、演劇的舞台空間として描かれたこのドラマの「家の話」であった。
1月クールのドラマでは、北川悦吏子の「ウチの娘は、彼氏が出来ない!!」も楽しめた。浜辺美波と菅野美穂の偽の母子の会話のテンポが面白かった。今どきの友達みたいな親子の会話、物語はその親子関係をめぐる展開だったが、これもまた象のマークが見える「ホッとできる家」=マンションの部屋が特権的「場」として表現され、古き良きたい焼き屋のお店もまた、人々がホッと集える「場」として機能していた。
岡田恵和の「にじいろカルテ」は、傷ついた善人ばかり登場するファンタジー的ユートピア村の話だった。コロナ禍でもう暴力や人間の嫌な場面は見たくないという癒しを求める時代の要請のようなドラマだった。やや気持ち悪いぐらいのみんなで助け合う善人ぶりが、非現実でありながらホッとできるコミュニティとして求められたのだろう。
「ペルソナ 脳に潜む闇」中野信子
と書いているように、人間とは日々変わり続けるものであり、一貫などしていないし、様々なペルソナを使い分けて生きているということだ。すべて納得のこの<まえがき>を読むだけで、この本の内容は尽きている。私自身は「無駄を肯定したい」と公言していることをしっかりと明記しておきたい。(略)
何がしたいのか、わかる方がつまらない。何十年も先が見えてしまう方が生き方は退屈ではないのか。見えてしまう方が気持ち悪くないのだろうか。
脳は一貫していることの方がおかしいのだ。自然ではないから、わざわざ一貫させようとして、外野が口を出したり、内省的に自分を批判したりするのである。一貫させるのは、端的に言えば、コミュニティから受けとることのできる恩恵を最大化するためという目的からにすぎない。私たちは、複数の側面を内包しながら、これらを使い分けて生きている。(中略)
私のペルソナ(他者に対峙する時に現れる自己の外的側面)は、私がそう演じている役である、と言ったら言い過ぎだと感じられるだろうか?あなたが、わたしだと思っているものは、わたしではない。一時的に、そういう側面を見て取ってもらっているだけのことである。
過去に存在した事実の集積で、人間はできている。過去の私を語ることが、現在の私を語ることになるのだが、考えてみると、今の私があるのは少し前の私がいたから、そしてその少し前の私がいたのは数年前の私がいたからだ。
「過去の私を語ることが、現在の私を語ることになる」ということで、現在から時代をさかのぼる形の自分史がこの本には書かれている。アレハンドル・ボドロフスキーは「コロナはサイコマジックだ。人の行動を変えていく、自然のサイコマジックなのだ」と語ったそうだが、「脳は毎夜、夢を見ながら、毎朝生まれ変わっている」ことから、変わり続け再構成されていく自分のことを書いている。一貫などしていない何事にも縛られたくないという自分のことを。
人間の闇ばかりに着目してきた彼女は、脳の快楽中枢が人に嘘をつかせたり、不倫をさせたり、毒親になったり、正義中毒になったり、さまざまな愚かなことを行うことを理解している。一貫性もなければ、ブレブレになる事も、それも脳の調整機能だったりする。だから「ポジティブ心理学」が嫌いだという。ポジティブであることを必要以上に強要され、人間の自然なネガティブさを許さない考えが好きではない、と。ポジティブであることの「禍々しい明るさ」や「胡散臭さ」にうんざりするという。特に日本人は「環境圧力」に敏感で「きちんとしていなければならない」と考える傾向は、呪いをかけられているのだと指摘する。
中野信子自身が幼少期の頃から、人と合わすことができず極端にコミュニケーション能力がなかったようだ。そしていつも頭痛もちでイライラするし、ネガティブな性格。子供の時に母親からも認めてもらえず、人と一緒にいるより孤独が好きだったという。一方で頭が良かったことが、まわりからも距離を持たれ、勉強することしかなかった。しかし、アカデミズムの世界では女性差別やセクハラばかりで、その理不尽さに戸惑い、怒り、生きづらさをずっと抱えていたようだ。テレビに出るようになって、タレントたちのコミュニケーション能力を必死に学んだという。「わたしはモザイク状の多面体である」という言葉を本のおわりに書いているが、「らしく」の呪縛から逃れ、中野信子という人間が何者なのかは、読者自身が作り上げるものであると語る。
「これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語でもある。」