「i アイ」西加奈子 (ポプラ文庫)
西加奈子は「さくら」「サラバ!」に続いて3冊目かな。家族、孤独、友情などをテーマに描くことが多い。人は誰かに抱きしめてもらいたいし、誰かを抱きしめたい。誰かがじっと自分のことを認めて、待ち続けてくれる人がいれば、もうそれだけで十分だ。生きていていいんだと思える。誰もが誰かに認めてもらいたい。生きていていいんだよと。そんな人が身近にいないと、人は生きていることが不安になる。
シリア生まれの女の子が養子として、日本人の母とアメリカ人の父との裕福な家庭にもらわれてくる。自分が選ばれたことで、シリアで選ばれなかった子供たち、あるいは世界中で不幸に見舞われている人々と自分の何が違うのか、そんな世界の不幸と自分の恵まれた環境を比較して、罪悪感を抱き続ける少女の物語だ。優しく幸せで裕福な家庭で過ごすことに、負い目を感じ続ける少女。「世界の不均衡」「不当な幸せ」「自分だけ不幸から免れた思い」・・・。シリアの戦乱から、アフガニスタンの空爆から、ハイチの貧困から、様々な世界の夥しい死から、なぜ自分だけが免れ、ぬくぬくと裕福な家庭で過ごせているのかと。自分の存在を自分で認められなかった。親から虐待を受けたわけでも、暴力を振るわれたわけでも、喧嘩が絶えない両親だったわけでもないのに、養子として選ばれた出自に不安を感じ、主人公のアイは苦しむ。そして「この世界にアイは存在しません」という虚数としての<i>を表現する数学教師の言葉が呪文のように彼女の存在を否定する。
自分の考えをはっきりと主張できなかった少女は、目立たぬようにまわりに合わせて生きてきた。少女は、アメリカから日本に転校し、同調圧力の強い日本で個性を出さぬことでひっそりと生きていた。しかし、まわりの少女たちとはっきりと違うミナという少女と出会い、孤独と孤独が引き寄せ合う磁石のように、二人は惹かれ合っていく。ミナもまた自らのセクシャリティに問題を抱え、孤独を抱えていたのだ。この辺の描写は、「サラバ!」という異国で出会う友情を描いた作品とも似ている。
そして、東日本大震災が起きる。アイは東京で地震の恐怖を感じつつ、東京をから離れなかった。親も親友のミナも原発事故の起きた東京から避難しなさいと忠告するが、アイは動かなかった。災害から逃れてきたこれまでの人生と同じにならないように、被災者であることを自ら選ぶのだ。被災地から逃げ出すことを、不幸から免れることを拒否することで、初めて自分で何かを選び、決めることができた。そして、原発反対デモでユウという年上の男性カメラマンと出会う。アイは自分を愛し、認めてくれる男性と初めて恋をし、自信と美しさを身に着けていく。
アイはユウとの子供を産むことで、この世界により確かなつながりを得ようとする。自らが得られなかった「血のつながり」を求めて。しかし、アイはそのつながりを得られぬまま、再び孤独へと突き落とされる。そんなアイを絶望の淵から救うのは、自らの過ちで身ごもった子供を堕胎しようとする親友のミナだった。授かった子供を殺すことが許せないアイと自分の人生を自分で選ぼうとするミナ。二人は、決裂しつつ、アイは再びミナを求めて会いに行く。
何をもって不幸とするのか、何に苦しむのか、人によって違う。生き様は人それぞれだ。傲慢と言われようが、贅沢と言われようが、人は何かで悩み、苦しむ。そのことは誰も咎められない。苦しければ苦しいと言えばいいし、我慢などすべきではない。まわりになど合わせなくていい。しかし、その資格は自分にあるのか?と考えてしまう。人と比較してしまう。そんな苦しみを丸ごと認め、自分を受けれ入れてくれる友や恋人の存在が、いかに大切かを西加奈子は描き続ける。「そこに愛はあるんか?」である。
海外の出来事に無関心な島国に住む日本人は、身近なことにしか関心がない。想像力が欠如しがちだ。海外の争いや戦争のことは遠い世界の出来事だと感じてしまう。西加奈子の育った環境が、このような小説を書かせるのだろうが、多様な世界があり、多様な差別や格差があり、多様な人々の生き方があることを想像することをしなければ、世界とつながれない。違うことを知りつつ、知ろうとすること、想像すること。それが、他者を理解するための第一歩であるはずだ。
シリア生まれの女の子が養子として、日本人の母とアメリカ人の父との裕福な家庭にもらわれてくる。自分が選ばれたことで、シリアで選ばれなかった子供たち、あるいは世界中で不幸に見舞われている人々と自分の何が違うのか、そんな世界の不幸と自分の恵まれた環境を比較して、罪悪感を抱き続ける少女の物語だ。優しく幸せで裕福な家庭で過ごすことに、負い目を感じ続ける少女。「世界の不均衡」「不当な幸せ」「自分だけ不幸から免れた思い」・・・。シリアの戦乱から、アフガニスタンの空爆から、ハイチの貧困から、様々な世界の夥しい死から、なぜ自分だけが免れ、ぬくぬくと裕福な家庭で過ごせているのかと。自分の存在を自分で認められなかった。親から虐待を受けたわけでも、暴力を振るわれたわけでも、喧嘩が絶えない両親だったわけでもないのに、養子として選ばれた出自に不安を感じ、主人公のアイは苦しむ。そして「この世界にアイは存在しません」という虚数としての<i>を表現する数学教師の言葉が呪文のように彼女の存在を否定する。
自分の考えをはっきりと主張できなかった少女は、目立たぬようにまわりに合わせて生きてきた。少女は、アメリカから日本に転校し、同調圧力の強い日本で個性を出さぬことでひっそりと生きていた。しかし、まわりの少女たちとはっきりと違うミナという少女と出会い、孤独と孤独が引き寄せ合う磁石のように、二人は惹かれ合っていく。ミナもまた自らのセクシャリティに問題を抱え、孤独を抱えていたのだ。この辺の描写は、「サラバ!」という異国で出会う友情を描いた作品とも似ている。
そして、東日本大震災が起きる。アイは東京で地震の恐怖を感じつつ、東京をから離れなかった。親も親友のミナも原発事故の起きた東京から避難しなさいと忠告するが、アイは動かなかった。災害から逃れてきたこれまでの人生と同じにならないように、被災者であることを自ら選ぶのだ。被災地から逃げ出すことを、不幸から免れることを拒否することで、初めて自分で何かを選び、決めることができた。そして、原発反対デモでユウという年上の男性カメラマンと出会う。アイは自分を愛し、認めてくれる男性と初めて恋をし、自信と美しさを身に着けていく。
アイはユウとの子供を産むことで、この世界により確かなつながりを得ようとする。自らが得られなかった「血のつながり」を求めて。しかし、アイはそのつながりを得られぬまま、再び孤独へと突き落とされる。そんなアイを絶望の淵から救うのは、自らの過ちで身ごもった子供を堕胎しようとする親友のミナだった。授かった子供を殺すことが許せないアイと自分の人生を自分で選ぼうとするミナ。二人は、決裂しつつ、アイは再びミナを求めて会いに行く。
何をもって不幸とするのか、何に苦しむのか、人によって違う。生き様は人それぞれだ。傲慢と言われようが、贅沢と言われようが、人は何かで悩み、苦しむ。そのことは誰も咎められない。苦しければ苦しいと言えばいいし、我慢などすべきではない。まわりになど合わせなくていい。しかし、その資格は自分にあるのか?と考えてしまう。人と比較してしまう。そんな苦しみを丸ごと認め、自分を受けれ入れてくれる友や恋人の存在が、いかに大切かを西加奈子は描き続ける。「そこに愛はあるんか?」である。
海外の出来事に無関心な島国に住む日本人は、身近なことにしか関心がない。想像力が欠如しがちだ。海外の争いや戦争のことは遠い世界の出来事だと感じてしまう。西加奈子の育った環境が、このような小説を書かせるのだろうが、多様な世界があり、多様な差別や格差があり、多様な人々の生き方があることを想像することをしなければ、世界とつながれない。違うことを知りつつ、知ろうとすること、想像すること。それが、他者を理解するための第一歩であるはずだ。
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「小川洋子と読む内田百閒アンソロジー」内田百閒(ちくま文庫)
小川洋子が選んだ内田百閒の幻想小説集。随筆も短編も織り交ぜて並べている。小川洋子がそれぞれ最後に短く一言コメントを書いているのもなかなかいいい。予想外の世界に連れていかれて戸惑っている我ら読者に、その戸惑いにそっと寄り添ってくれる感じとでも言おうか。
暗い土手にカンテラの光に導かれて行く一膳めし屋で聞こえてくる隣の客の会話(「冥途」)、熊が牛の横腹を喰っている幟を見て帰ろうと思っていたのに女に「まあ面白そうね、入りましょう」と手を強く握られ見世物小屋に引っ張られ、抱き上げられて舞台の熊のところへ連れていかれる恐怖(「蜥蜴」)、盲人の琴の先生を主人公に音と気配で暮らす老人の生活を描いた「柳撿校の小閑」。手を引かれて導かれながら生活する感じもなかなか味わい深い。「山井の家内で御座います」といきなり玄関にやってくる未亡人からもらう紙包み。そのなかの籠から突然現れる白兎の驚き(「雲の脚」)、「サラサーテの盤」もまた友人の妻、死んだ中砂の細君が玄関口に現れる。友人の妻は死者の遣いか。意に反して光や音に導かれ、夜の土手や町で惑わされ、突然妙なものが現れる。鳥やら兎やら熊やら、件やら奇妙な生き物たちが。そして死んだ友の妻が玄関に立っているのだ。
そして、百閒小説では「音の気配」は重要なのだ。しんしんと静まり返って何の音もしなくなったと思ったら・・・。
「座っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっている思った。ころころと云う音が次第に遠くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいした。廂をすべって庭の土に落ちたら、落ちた音を聞くか聞かないかに総毛の毛が一本立ちになる様な気がした」というように、静かに奇妙な音が突然に忍び寄ってくるのだ。「サラサーテの盤」の聴き取れない奇妙な声に導かれて、あの世から友の奥さんが誘いに来る。
「とおぼえ」という氷屋の短編も好きだ。百閒幻想小説では、「風」もまた重要な舞台装置だ。
「秋風が立っているのだが、蒸し暑い晩もあって、今日は特に暗くなってから気持ちの悪い風が吹き出した。どっちから吹いてくるのかよくわからない。迷い風というのだろう。しめっぽくて生温かいから、肌がじとじとする。冷たい氷水が飲みたいと思った。」と、迷い風に導かれて氷屋に入ると「すいを下さい」と男は言う。「すい」とは「甘露を入れて、その上に氷を掻いてのっけた一番安い氷」だそうだ。ラムネの玉が抜ける音で主人が驚き、焼酎を飲んでいたら、「お客さん、何か云われましたか」と何も言わないのに何度も聞かれ、幽霊や墓地で光る「人魂」を見た話をされる。そして遠くで犬の鳴き声がすると主人は「どこで鳴いておりますかね。それが一度鳴きやんで、今度又鳴き出したときは、とんでもない別の方角に移っているんです。あんなに遠くの所から、やっぱり遠くの別の所へ。そう早く走っていけるわけがないと思うんですけれど」「ほかの犬だろう」「いいえ、それは解っているんです。おんなじ犬ですとも。わっしは吠え出す前から知ってるのですから」と不思議なことを主人は言う。静かな夜に氷屋で喉が渇いて焼酎を飲みながら、犬の遠吠えを聴き、主人と幽霊の話をする。
そのほか、下宿屋で起きる様々な人生模様を描いた「他生の縁」、長野初さんというドイツ語を習いに来ていた女子学生が大震災で亡くなる師弟愛を描いた愛情深い物語「長春香」など、百閒文学の幅は広い。
「消えた旋律」も、音にまつわる物語だ。焼夷弾で焼けたビルの中の音楽教室から聴こえてくるカスタネットのような音。繰り返される旋律は、雨がざあざあ降っている夜でも、耳慣れた旋律が聴こえてくる。曲が思い出せないので紙片に「タータカ、タータ、タータカタ」と書いても、一晩寝るとその旋律は忘れてしまう。夜になるとまた旋律は聴こえてくるのに、昼は忘れてしまうその繰り返し。
内田百閒の小説は何度読んでも発見がある。そしていつの間にか忘れてしまう。そしてときどきまた読みたくなる。いつもどこかに連れていかれ、あやふやな境目を彷徨う文章は、奇妙であるけれど人間味に溢れていて、怪しげで不思議で味わいがある。とりとめのないことしか書けないが、またいつかこのアンソロジーも読むことになるだろう。
暗い土手にカンテラの光に導かれて行く一膳めし屋で聞こえてくる隣の客の会話(「冥途」)、熊が牛の横腹を喰っている幟を見て帰ろうと思っていたのに女に「まあ面白そうね、入りましょう」と手を強く握られ見世物小屋に引っ張られ、抱き上げられて舞台の熊のところへ連れていかれる恐怖(「蜥蜴」)、盲人の琴の先生を主人公に音と気配で暮らす老人の生活を描いた「柳撿校の小閑」。手を引かれて導かれながら生活する感じもなかなか味わい深い。「山井の家内で御座います」といきなり玄関にやってくる未亡人からもらう紙包み。そのなかの籠から突然現れる白兎の驚き(「雲の脚」)、「サラサーテの盤」もまた友人の妻、死んだ中砂の細君が玄関口に現れる。友人の妻は死者の遣いか。意に反して光や音に導かれ、夜の土手や町で惑わされ、突然妙なものが現れる。鳥やら兎やら熊やら、件やら奇妙な生き物たちが。そして死んだ友の妻が玄関に立っているのだ。
そして、百閒小説では「音の気配」は重要なのだ。しんしんと静まり返って何の音もしなくなったと思ったら・・・。
「座っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっている思った。ころころと云う音が次第に遠くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいした。廂をすべって庭の土に落ちたら、落ちた音を聞くか聞かないかに総毛の毛が一本立ちになる様な気がした」というように、静かに奇妙な音が突然に忍び寄ってくるのだ。「サラサーテの盤」の聴き取れない奇妙な声に導かれて、あの世から友の奥さんが誘いに来る。
「とおぼえ」という氷屋の短編も好きだ。百閒幻想小説では、「風」もまた重要な舞台装置だ。
「秋風が立っているのだが、蒸し暑い晩もあって、今日は特に暗くなってから気持ちの悪い風が吹き出した。どっちから吹いてくるのかよくわからない。迷い風というのだろう。しめっぽくて生温かいから、肌がじとじとする。冷たい氷水が飲みたいと思った。」と、迷い風に導かれて氷屋に入ると「すいを下さい」と男は言う。「すい」とは「甘露を入れて、その上に氷を掻いてのっけた一番安い氷」だそうだ。ラムネの玉が抜ける音で主人が驚き、焼酎を飲んでいたら、「お客さん、何か云われましたか」と何も言わないのに何度も聞かれ、幽霊や墓地で光る「人魂」を見た話をされる。そして遠くで犬の鳴き声がすると主人は「どこで鳴いておりますかね。それが一度鳴きやんで、今度又鳴き出したときは、とんでもない別の方角に移っているんです。あんなに遠くの所から、やっぱり遠くの別の所へ。そう早く走っていけるわけがないと思うんですけれど」「ほかの犬だろう」「いいえ、それは解っているんです。おんなじ犬ですとも。わっしは吠え出す前から知ってるのですから」と不思議なことを主人は言う。静かな夜に氷屋で喉が渇いて焼酎を飲みながら、犬の遠吠えを聴き、主人と幽霊の話をする。
そのほか、下宿屋で起きる様々な人生模様を描いた「他生の縁」、長野初さんというドイツ語を習いに来ていた女子学生が大震災で亡くなる師弟愛を描いた愛情深い物語「長春香」など、百閒文学の幅は広い。
「消えた旋律」も、音にまつわる物語だ。焼夷弾で焼けたビルの中の音楽教室から聴こえてくるカスタネットのような音。繰り返される旋律は、雨がざあざあ降っている夜でも、耳慣れた旋律が聴こえてくる。曲が思い出せないので紙片に「タータカ、タータ、タータカタ」と書いても、一晩寝るとその旋律は忘れてしまう。夜になるとまた旋律は聴こえてくるのに、昼は忘れてしまうその繰り返し。
内田百閒の小説は何度読んでも発見がある。そしていつの間にか忘れてしまう。そしてときどきまた読みたくなる。いつもどこかに連れていかれ、あやふやな境目を彷徨う文章は、奇妙であるけれど人間味に溢れていて、怪しげで不思議で味わいがある。とりとめのないことしか書けないが、またいつかこのアンソロジーも読むことになるだろう。
「三の隣は五号室」長嶋有(中公文庫)
第一藤岡荘五号室に住んでいる歴代の住人たちのエピソードを中心に展開していくグランドホテル形式というか、ぼろアパートの部屋でつながっていく時間軸の物語。だから登場人物たちの物語は深化せず、ただ横滑りしていくだけ。雨の音や水道の蛇口、障子の穴やエアコンにブレーカー、お風呂のズレた栓など、住人たちがそれぞれ同じものを使いながら、時は移り変わり、歴代の住人たちでつながっていく。モノは古くなり、少しずつ変化していく。
物語としては展開しないので面白くはない。エピソードの羅列なのだ。こういう仕掛けで小説を書いてみたかったんだなぁというのは、なんとなくわかる。部屋で暮らすささやかな日常が、人が入れ替わることによって、引き継がれていく。安アパートで賃貸暮らしをしたことがある人間なら、誰もが経験した感覚だろう。前の住人の存在をちょっとした部屋の何かで感じたりしたことが。アパートはずっとそこにあり、数年ごとに住人は入れ替わりつつ時間は移ろっていく。その不思議なつながり。同じ部屋で暮らしていたというだけで、なぜか親近感を持ってしまう。同じ間取りをそれぞれが工夫しながら暮らしてる。その差異と同質の感覚。それを考えると、なんだか不思議な気分になる。人と人とは、どこかでつながりつつ、それぞれが違う。その人間の違いの面白さ。隣の人(他者)はどんな暮らしをしているのか、それを想像しながら、人は生きているのかもしれない。
物語としては展開しないので面白くはない。エピソードの羅列なのだ。こういう仕掛けで小説を書いてみたかったんだなぁというのは、なんとなくわかる。部屋で暮らすささやかな日常が、人が入れ替わることによって、引き継がれていく。安アパートで賃貸暮らしをしたことがある人間なら、誰もが経験した感覚だろう。前の住人の存在をちょっとした部屋の何かで感じたりしたことが。アパートはずっとそこにあり、数年ごとに住人は入れ替わりつつ時間は移ろっていく。その不思議なつながり。同じ部屋で暮らしていたというだけで、なぜか親近感を持ってしまう。同じ間取りをそれぞれが工夫しながら暮らしてる。その差異と同質の感覚。それを考えると、なんだか不思議な気分になる。人と人とは、どこかでつながりつつ、それぞれが違う。その人間の違いの面白さ。隣の人(他者)はどんな暮らしをしているのか、それを想像しながら、人は生きているのかもしれない。
「マチネの終わりに」平野啓一郎(文春文庫)
初めて平野啓一郎氏の小説を読んだ。彼の新聞などのコメント、文章を読むたびに気になっていたのだ。
この小説は、イケメン男といい女の観念的恋愛すれ違い小説だ。イケメンのインテリ天才ギタリスト、知性があって、ユーモアもあって、機知に富み、天才肌のクラシックギタリスト、蒔野聡史。そして世界を飛び回る美人ジャーナリスト、小峰洋子。イラクなど戦地の取材もし、人道的であり、社会に対して真摯で誠実に向き合う記者である。彼女も才能あるクロアチアの映画監督と日本人の女性との間に生まれた何か国語も話せるハーフであり、グローバルに活躍できる才女である。そんな甲乙つけがたい美男美女カップルの話なんで、ちょっと鼻につく。誰も近寄れないような才能と美しさ。知的な会話は、二人だけが共有できる別次元であったりする。そういう人たちの周りには、才能のない凡人たちの嫉妬と羨望ばかりが浮きあがる。洋子のフィアンセのリチャードも、蒔野のマネージャー三谷もまた、そんな凡庸な脇役にしかなれない。
蒔野が洋子との最初の出会いの時に語ったセリフ。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それぐらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」という「過去は未来によって変えられる」というテーマが何度も繰り返される。時間という観念は、一方的に未来に向かっ流れているだけではないということが、この小説のテーマといえるかもしれない。
脇役たちによる羨望と嫉妬によって、完璧な美男と美女は、なかなか結び付かない。そこには、自立した男と女の相手への配慮と自分のプライドがある。人間は欠点だらけの不完全な存在である。そのことが、人を惹きつけるし、呼び寄せもする。人に甘えたり、人を頼ったり、そんな人間らしい愚かさをお互いに受け入れること、そこに愛というものも生まれるのかもしれない・・・なんて思った。
登場人物というものは、作家自身を投影しているもののような気がする。平野啓一郎氏のほかの小説を読んでいないので、なんとも言えないのだが、不器用でどんくさい頭の悪いブ男は、あまり登場しないんじゃないかなぁ。
この小説は、イケメン男といい女の観念的恋愛すれ違い小説だ。イケメンのインテリ天才ギタリスト、知性があって、ユーモアもあって、機知に富み、天才肌のクラシックギタリスト、蒔野聡史。そして世界を飛び回る美人ジャーナリスト、小峰洋子。イラクなど戦地の取材もし、人道的であり、社会に対して真摯で誠実に向き合う記者である。彼女も才能あるクロアチアの映画監督と日本人の女性との間に生まれた何か国語も話せるハーフであり、グローバルに活躍できる才女である。そんな甲乙つけがたい美男美女カップルの話なんで、ちょっと鼻につく。誰も近寄れないような才能と美しさ。知的な会話は、二人だけが共有できる別次元であったりする。そういう人たちの周りには、才能のない凡人たちの嫉妬と羨望ばかりが浮きあがる。洋子のフィアンセのリチャードも、蒔野のマネージャー三谷もまた、そんな凡庸な脇役にしかなれない。
蒔野が洋子との最初の出会いの時に語ったセリフ。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それぐらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」という「過去は未来によって変えられる」というテーマが何度も繰り返される。時間という観念は、一方的に未来に向かっ流れているだけではないということが、この小説のテーマといえるかもしれない。
脇役たちによる羨望と嫉妬によって、完璧な美男と美女は、なかなか結び付かない。そこには、自立した男と女の相手への配慮と自分のプライドがある。人間は欠点だらけの不完全な存在である。そのことが、人を惹きつけるし、呼び寄せもする。人に甘えたり、人を頼ったり、そんな人間らしい愚かさをお互いに受け入れること、そこに愛というものも生まれるのかもしれない・・・なんて思った。
登場人物というものは、作家自身を投影しているもののような気がする。平野啓一郎氏のほかの小説を読んでいないので、なんとも言えないのだが、不器用でどんくさい頭の悪いブ男は、あまり登場しないんじゃないかなぁ。
「忘れられたワルツ」絲山秋子(河出文庫)
2011年3月11日東日本大震災以降、ふつうのことがふつうでなくなってしまった世界、2011年から2013年に発表された絲山秋子の短編集。相変わらず奇妙な話ばかりである。奇妙な人物たちばかりというべきか、いや、奇妙な出来事ばかりというべきか。とにかく風変わりな短編集である。
「タカちゃん、神を見たって言ってました」「・・・すれ違うときにものすごい大勢の人が歩いているような靴音がしたそうです。それで、あれはほんとうの神だって」・・・「どんな顔してたかって聞いたんです。そうしたら覚えてないって。ゆでたまごみたいにつるんとしてたけれど、靴音にびっくりして顔は覚えていないと言ってました」(P181「神と増田喜十郎」)
「私は鉄塔が好きだった」「鉄塔には自分の目的しかない。関係ない人に用事は一切ないのだった。部外者は相手にしない。そこが毅然として好きだった」(P97「ニイタカヤマノボレ」)
なんだろう。うまく社会やまわりに合わせることができない人たち。「恋愛とはすなわち雑用である」という会社の女の子(「恋愛雑用論」。「強震モニタ走馬灯」では、「離婚したから遊びに来ませんか」と昔の同級生の家に遊びに行く女同士の話。日本列島の地震モニタを監視し続ける友人。恩師の先生の葬式のために雪道で車を走らせる男がドライブインでオーロラを見せる装置を運ぶ女との出会いを描いた「葬式とオーロラ」。アスペルガー発達障害だと彼氏に言われた女の子「ニイタカヤマノボレ」。得意先の会社に行くはずが、知らない街に電車で降り立った上司と部下の「NR」。母の不在の秘密を追いかけている姉と、語学勉強で現実逃避をしている父と痒みの発作が収まらない女の子・風花の家族の物語「忘れられたワルツ」。それから、女装する増田喜十郎が死んだ友人の妻と女同士で温泉旅行に行く話など。どれもとりとめもなく、ちょっと不思議で、ちょっと世の中からズレていて、世界の片隅で、ちょっとした人生の秘密が垣間見られるような物語たち。気になる作家です。
「タカちゃん、神を見たって言ってました」「・・・すれ違うときにものすごい大勢の人が歩いているような靴音がしたそうです。それで、あれはほんとうの神だって」・・・「どんな顔してたかって聞いたんです。そうしたら覚えてないって。ゆでたまごみたいにつるんとしてたけれど、靴音にびっくりして顔は覚えていないと言ってました」(P181「神と増田喜十郎」)
「私は鉄塔が好きだった」「鉄塔には自分の目的しかない。関係ない人に用事は一切ないのだった。部外者は相手にしない。そこが毅然として好きだった」(P97「ニイタカヤマノボレ」)
なんだろう。うまく社会やまわりに合わせることができない人たち。「恋愛とはすなわち雑用である」という会社の女の子(「恋愛雑用論」。「強震モニタ走馬灯」では、「離婚したから遊びに来ませんか」と昔の同級生の家に遊びに行く女同士の話。日本列島の地震モニタを監視し続ける友人。恩師の先生の葬式のために雪道で車を走らせる男がドライブインでオーロラを見せる装置を運ぶ女との出会いを描いた「葬式とオーロラ」。アスペルガー発達障害だと彼氏に言われた女の子「ニイタカヤマノボレ」。得意先の会社に行くはずが、知らない街に電車で降り立った上司と部下の「NR」。母の不在の秘密を追いかけている姉と、語学勉強で現実逃避をしている父と痒みの発作が収まらない女の子・風花の家族の物語「忘れられたワルツ」。それから、女装する増田喜十郎が死んだ友人の妻と女同士で温泉旅行に行く話など。どれもとりとめもなく、ちょっと不思議で、ちょっと世の中からズレていて、世界の片隅で、ちょっとした人生の秘密が垣間見られるような物語たち。気になる作家です。