「人生万歳!」ウディ・アレン

J=L・ゴダールのように徹底して映画の嘘を解体して観客を置いてきぼりにしてしまう映画監督もいれば、ウディ・アレンのように映画の嘘と戯れながら辛辣な皮肉と笑いで見事なエンターテインメント映画として成立させてしまう映画監督もいる。だから映画は面白い。
これはウディ・アレンらしい久々のウディ・アレン映画だ。近作を全部観ているわけではないけれど、最近の彼の映画の中ではとびきり面白い。少なくとも『それでも恋するバルセロナ』よりよっぽどいい。彼は40本の自薦6本のベストムービーに、『カメレオンマン』、『カイロの紫のバラ』、『夫たち、妻たち』、『ブロードウェイと銃弾』、『マッチポイント』、そして『それでも恋するバルセロナ』を挙げている。
40作品目となる『人生万歳!』は、久々にニューヨーク・マンハッタンを舞台としている。ウディ・アレンにとっては舞台の街もまた大事な登場人物である。そして、ウディ・アレンそのものといっていい自称天才の物理学者で皮肉屋で偏屈で人間嫌いのボリス役をラリー・デヴィッドが見事に演じ、南部から出てきた尺取虫の脳味噌と言われつつも、前向きで憎めないミューズを『レスラー』に娘役で出ていたエヴァン・レイチェル・ウッドが演じている。
冒頭、街角のカフェで雑談するオヤジたち、やがてカメラに向かって話しだす。向こうの大勢の観客たちを意識して。主役のボリスがさらに歩きだして一人でカメラに向かって滔々とこの世の愚かさを語り出すと、子供に「あの人、一人で喋っているよ」と突っ込ませる。いきなり映画の嘘を晒してしまう禁じ手を使いつつ、映画の物語の中でもたびたびボリスはカメラに向かって語り出す。ラストのそれぞれのカップルがめでたく収まるところに収まり、新年を祝うパーティーの大団円でもそれは繰り返される。「全体像を見渡せているのは私だけだ」と。このカメラに向かって語り出す手法は、かつてもウディ・アレンは『アニー・ホール』などでもやっている演出だ。映画の虚構性を物語の中で取り込んできた(『カイロの紫のバラ』)彼ならではの冷めた皮肉だ。観客は虚構が虚構であることを知らされつつも、ついつい楽しんでしまう。
そもそも映画の物語そのものがいたってご都合主義的なのだ。いきなりグラマラスな美女が、「今夜泊めてくれ」と孤独で偏屈な老人ボリスの元に突然姿を現すのだ。自殺未遂して離婚したあとに。「人生はなんでもありだ」というメッセージともに、なんでもありの物語展開。彼の2度の自殺未遂は、ありない幸運だし、娘メロディの出現ばかりではなく、母のパトリシア・クラークソンの成功物語と変貌ぶりや、浮気相手に愛想を尽かされ戻ってきた父のエド・ベグリー・Jrがゲイのカップルになってしまう展開などなど、もう笑えるご都合主義ばかり。人生は物語のように突然に恋が始まり、人間嫌いも愛を得る。かと思うと、破綻も突然やって来て、意外な出会いで才能が開花し、自分でも思ってもみない未来が待っていたりする。そんな寓話的な人生の真実を見事に笑えるご都合主義で、楽しく描いてみせる。
黒人やユダヤ差別社会を語り、自らの天才ぶりとまわりの低脳ぶりを嘲笑い、10段階基準で女性のルックスを採点し、愛なんて永遠じゃないと悟り、欲望とセックスを皮肉り、神さえも無意味だと放言するその皮肉と辛辣さ。人生の不幸を神の試練として祈る母に、無神論者ボリスに感化されたメロディが「お母さん、神様なんていないのよ。無があるだけよ。」と諭す場面をアメリカ人はどんな風に感じるのだろう。さらに、あらゆる偏見を嘲笑うかのように、ゲイカップルも2人の男性と1人の女性の共同生活も登場させて見せるのだ。もう笑うしかない展開の連続。
「この世はなんでもあり」、他人に迷惑さえかけなければ、運命を受け入れて、人生を全てを楽しめ!というこのおおらかさは、ウディ・アレンが老境の域に達した達観か。すがすがしく、楽しい映画だ。
英題: WHATEVER WORKS
製作年: 2009年
製作国: アメリカ
日本公開: 2010年12月11日
上映時間: 1時間31分
配給: アルバトロス・フィルム
監督・脚本: ウディ・アレン
撮影: ハリス・サヴィデス
編集: アリサ・レプセルター
衣装: スージー・ベイシンガー
美術: サント・ロカスト
製作: レッティ・アロンソン / スティーヴン・テネンバウム
キャスト:ラリー・デヴィッド、エヴァン・レイチェル・ウッド、パトリシア・クラークソン、エド・ベグリー・Jr、ヘンリー・カヴィル、コンリース・ヒル、マイケル・マッキーン
☆☆☆☆4
(シ)
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tag : 人生
「第9地区」ニール・ブロムカンプ
話題になった「第9地区」を見た。なるほど、よくできている。南アフリカ上空に突如出現したUFO。そしてエビのようなエイリアン・宇宙人たち。この映画の宇宙人は、故障したUFOの中で弱っていた。強くない宇宙人なのだ。そんな宇宙人の隔離政策のため移住させようとする超国家機関MNU。これはまるで、黒人とか難民の隔離政策のようだ。宇宙人は厄介な邪魔もの。スラム化した街の秩序を取り戻すために、厄介者を隔離して、平穏を回復しようとする国家。そんな厄介者の異端者の隔離政策はいつの世でも行われる。
テンポよく映画は進んでいく。この映画はそんな隔離政策の責任者になった男が、バカみたいに家々を回り、建前の了解の署名をもらいに歩くのである。現実と建前。見せかけのアリバイ工作。これもよくあることだ。そんな責任者ヴィカスが、エイリアンの家で見つけた奇妙なものから、謎の液体を浴びてしまい、エイリアンに変身してしまうことから面白くなってくる。
責任者であるヴィカスは決していい男ではない。どちらかと言うと小心者で差別的な軽さが描かれる。エイリアンの卵を見つけて嬉々として殺してみたり、エイリアンの子供に威張ってみたり。かなりの差別的な振る舞いだ。そんな男が、エイリアンそのものになっていくのだ。
それは、まるで狼男の変身だ。片腕が突然エイリアンのエビのようになってしまうのだ。自らの肉体が変化していく恐怖。そして、エイリアンの肉体を手に入れた人間は、実験サンプルとして切り刻まれそうになる。必死に逃げるヴィカスはMNUから追われる男になる。体制側の人間から、体制に狙われる男に。誰でもが犯罪者にされる可能性があるということだ。
この映画は、さらにアフリカのギャング団組織も入り、三つ巴の争いになってくる。エイリアンにアフリカ人売春婦を提供したり、武器の売買や猫缶をエイリアンに売ったり、なかなか商魂たくましい。さらにエイリアンの肉を食らい、エイリアンの強さを手に入れようとする妖しさ。魔術的でさえあるところも面白い。
悲劇の主人公、人間とエイリアンの中間男ヴィカスは、家族愛や妻との愛で救われることもなく、次第にエイリアン側に加担していく。この映画は、エイリアンの中でも優秀なエイリアンとただの労働者としてのエイリアンがいることがわかってくる。エイリアンの差別構造。その優秀で知的なエイリアンであるジョンソンは、とても子供思いでこの映画の中で最も<いいヤツ>として描かれる。最後はヴィカスとの友情まで芽生える感じだ。
勧善懲悪のスッキリするような物語ではない。エイリアンは再び戻ってくるのか?地球に残されたエイリアン達は見捨てられたのか?人類とエイリアンはどうなるのか?ヴィカスは悲劇のヒーローでさえない。差別と隔離はどんなところにもあるという皮肉な映画である。
原題:District 9
製作国:2009年アメリカ映画
劇場公開日 2010年4月10日
配給:ワーナー・ブラザース映画、ギャガ
上映時間:111分
監督:ニール・ブロムカンプ
製作:キャロライン・カニンガム、ピーター・ジャクソン
製作総指揮:ケン・カミンズ、ビル・ブロック
美術:フィリップ・アイビー
音楽:クリントン・ショーター
編集:ジュリアン・クラーク
キャスト:シャルト・コプリー、デビッド・ジェームズ、ジェイソン・コープ、バネッサ・ハイウッド
☆☆☆3
(タ)
テンポよく映画は進んでいく。この映画はそんな隔離政策の責任者になった男が、バカみたいに家々を回り、建前の了解の署名をもらいに歩くのである。現実と建前。見せかけのアリバイ工作。これもよくあることだ。そんな責任者ヴィカスが、エイリアンの家で見つけた奇妙なものから、謎の液体を浴びてしまい、エイリアンに変身してしまうことから面白くなってくる。
責任者であるヴィカスは決していい男ではない。どちらかと言うと小心者で差別的な軽さが描かれる。エイリアンの卵を見つけて嬉々として殺してみたり、エイリアンの子供に威張ってみたり。かなりの差別的な振る舞いだ。そんな男が、エイリアンそのものになっていくのだ。
それは、まるで狼男の変身だ。片腕が突然エイリアンのエビのようになってしまうのだ。自らの肉体が変化していく恐怖。そして、エイリアンの肉体を手に入れた人間は、実験サンプルとして切り刻まれそうになる。必死に逃げるヴィカスはMNUから追われる男になる。体制側の人間から、体制に狙われる男に。誰でもが犯罪者にされる可能性があるということだ。
この映画は、さらにアフリカのギャング団組織も入り、三つ巴の争いになってくる。エイリアンにアフリカ人売春婦を提供したり、武器の売買や猫缶をエイリアンに売ったり、なかなか商魂たくましい。さらにエイリアンの肉を食らい、エイリアンの強さを手に入れようとする妖しさ。魔術的でさえあるところも面白い。
悲劇の主人公、人間とエイリアンの中間男ヴィカスは、家族愛や妻との愛で救われることもなく、次第にエイリアン側に加担していく。この映画は、エイリアンの中でも優秀なエイリアンとただの労働者としてのエイリアンがいることがわかってくる。エイリアンの差別構造。その優秀で知的なエイリアンであるジョンソンは、とても子供思いでこの映画の中で最も<いいヤツ>として描かれる。最後はヴィカスとの友情まで芽生える感じだ。
勧善懲悪のスッキリするような物語ではない。エイリアンは再び戻ってくるのか?地球に残されたエイリアン達は見捨てられたのか?人類とエイリアンはどうなるのか?ヴィカスは悲劇のヒーローでさえない。差別と隔離はどんなところにもあるという皮肉な映画である。
原題:District 9
製作国:2009年アメリカ映画
劇場公開日 2010年4月10日
配給:ワーナー・ブラザース映画、ギャガ
上映時間:111分
監督:ニール・ブロムカンプ
製作:キャロライン・カニンガム、ピーター・ジャクソン
製作総指揮:ケン・カミンズ、ビル・ブロック
美術:フィリップ・アイビー
音楽:クリントン・ショーター
編集:ジュリアン・クラーク
キャスト:シャルト・コプリー、デビッド・ジェームズ、ジェイソン・コープ、バネッサ・ハイウッド
☆☆☆3
(タ)
tag : SF
「シングルマン」トム・フォード

世界的ファッション・デザイナーとして活躍するトム・フォードが長編映画初監督に挑んだ話題作。1964年に発表されたクリストファー・イシャーウッドの同名小説を原作に、長年のパートナーを亡くした50代のゲイのイギリス人大学教授の愛と葛藤を描き出す…という映画だ。
暗い水中での裸の男の映像、そして雪の中の自動車事故現場の俯瞰。スタイリッシュな美しい映像で始まる。「世間が期待するジョージとして一日を生き抜く」といったモノローグが入り、やや自省的な映画であることが察知される。そう、これは「死ぬこと」を考え続けた男の最後の一日の物語だ。最愛のパートナーを交通事故で失ったゲイとしての空虚感が映画全体の空気を支配している。
ただそれだけだ。意味ありげなフラッシュバックも、「死」への願望も、女を愛せなかった自らの性も、最愛のパートナーとの幸せな生活も、最後に現われた美男子の生徒と夜の海で泳ぐシーンも、どこか共感できなかった。入り込めなかった。ただのゲイの失恋物語にしか思えない。期待外れでした。
原題: A Single Man
監督・脚本・製作: トム・フォード
製作: クリス・ワイツ、アンドリュー・ミアノ、ロバート・サレルノ
原作: クリストファー・イシャーウッド
撮影: エドゥアルド・グラウ
音楽: アベル・コルゼニオフスキー
美術: ダン・ビショップ
編集: ジョアン・ソーベル
キャスト:コリン・ファース、ジュリアン・ムーア、ニコラス・ホルト、マシュー・グード、ジョン・コルタジャレナ
製作国: 2009年アメリカ映画
上映時間: 100分
☆☆☆3
(シ)
tag : 人生
「闇の列車、光の旅」 ケイリー・ジョージ・フクナガ

逃げろ!逃げろ!世界の果てまで!
人はなぜ彷徨うのか?なぜ旅をするのか?なぜ移住するのか?
安住の地を求めて?どこかに夢の国があるから?豊かになるために?幸せになるために?何かから逃れるために?
とにかく、何かを求めて人は旅をする。ここではないどこかへ…。
そして、そんな旅の映画に僕はなぜか惹かれてしまう。彷徨う映画に共感してしまう。
これはホンジュラスからメキシコを経由して、自由の国アメリカを目指す移民の物語だ。アメリカに行けば、豊かな暮らしが待っているのか?そんなことは誰にもわからない。でも今よりはマシだろう。だから移動する。旅に出る。しかも命がけの旅に。
列車が圧倒的な迫力で、彼らを運び続ける。北へ。未来へ。移民たちが何人屋根の上に乗ろうとも、ビクともしない力強さだ。その推進力が映画を支える。残してきた哀しみや貧困、そして夢や希望を乗せて。しかし、メキシコでは強盗に合い、国境警備隊の検問や取り締まりから逃れるために時には命を落とす。それでも彼らは、北を目指す。
物語は、ホンジュラスに住む少女サイラとその父と叔父が列車の屋根に乗ってアメリカを目指す旅と、メキシコのギャング団に属している青年カスペルの物語が並行して語られながら始まる。やや分かりづらい出だしだが、カスペルのギャング団での物語が観客を引き込む。組織と個人の葛藤だ。ボスとの関係の中で恋人を失うどん詰まりの哀しみ。カスペルの未来は奪われたかのようだ。カスペルに仲間に入れられた12歳の少年スマイリーの存在が効果的だ。彼は未来のカスペルなのかもしれない。未来を奪われたカスペルは、列車の上で少女サイラと出会う。サイラにとって、カスペルは希望になる。追っ手から逃げる死へと向かう旅と未来への希望の旅が交錯し、列車は進む…。
移民の問題は途上国と先進国の問題だ。豊かな暮らしを求めて、人は移動する。そこにはギリギリの<生と死>がある。当然そこにはドラマが生まれる。ホンジュラスなど中南米からアメリカへの移民をテーマにして作られたこの映画は、そんな<生と死>のドラマを<列車の屋根>という舞台を使って見事に描いている。そして純粋な若者たちの<眼差しの映画>になっている。未来を見つめる少女サイラの眼差し、死へと向かうカスペルの眼差し、そして組織の中で生きようとする少年スマイリーの眼差し、それぞれの眼差しの強さが、とてもストレートに心に響いてくる。
英題: SIN NOMBRE
製作年: 2009年
製作国: アメリカ/メキシコ
監督・脚本: ケイリー・ジョージ・フクナガ
製作総指揮: ヘラルド・バレラ / パブロ・クルス / ディエゴ・ルナ / ガエル・ガルシア・ベルナル
音楽: マルセロ・サルボス
撮影監督: アドリアーノ・ゴールドマン
キャスト:エドガール・フローレス、パウリナ・ガイタン、クリスティアン・フェレール、テノッチ・ウエルタ・メヒア、ディアナ・ガルシア、ルイス・フェルナンド・ペーニャ、エクトル・ヒメネス
日本公開: 2010年6月19日
上映時間: 1時間36分
配給: 日活
カラー/シネマスコープ/ドルビーデジタル/PG-12
☆☆☆☆4
(ヤ)
tag : 旅
「ガールフレンド・エクスペリエンス」 スティーヴン・ソダーバーグ

スティーヴン・ソダーバーグ監督は不思議な監督だ。「セックスと嘘とビデオテープ」で性を題材に衝撃的なデビューを飾ったかと思いきや、「オーシャンズ11」のようなハリウッド娯楽大作も撮り、「チェ」2部作のようなドキュメント的な伝記映画も撮るという器用さ。つかみどころのない監督だ。そして、この作品はどちらかというとデビュー作「セックスと嘘とビデオテープ」に立ち返ったかのような実験的に意欲作である。そのぶんやや娯楽作品としてはとっつきにくい映画となっている。
物語として見やすい構成になっていない。ほとんどがとりとめのない会話なのだ。物語があまり進んでいかない。全米No,1のアダルト女優サーシャ・グレイを担ぎ出し、リーマンショック後の大統領選を控えた08年の秋のニューヨークが舞台だ。アダルト女優(彼女のどこがそれ程人気なのかよくわからないが…)を、高級エスコート嬢の役に据えて、彼女のクライアントたちとの様々な会話で映画が進んでいく。やや知的な高級娼婦は、食事をしたり映画を見たり、ホテルのバーで過ごし、そんな男たちとの会話から、金融の話や経済不況、政治や社会の断面が垣間見られる。まさにドキュメンタリーのようだ。セックスシーンはない。セックスを描かないで、セックス前と後の高級エスコート嬢とエリート男たちとの会話で構成されているのだ。そこに彼女のエスコート嬢としてのトップの位置を守るための闘いと自己管理があり、恋人のクリス(クリス・サントス)とのプライベートな時間もあることが分かってくる。そして、彼女は気になる男から一緒に週末を過ごそうと誘われ、恋人との関係がぎくしゃくし始める…。たったそれだけの物語だ。
とても知的な映画だ。セックスと資本主義と男と女。ニューヨークのエリートたちは、経済とセックスに明け暮れているのかもしれない。クライアントと恋人を、仕事とプライベートを分けて生きようとするも、それはそれほど単純にはいかない。「君の素顔が見たい」とジャーナリストの客は彼女に質問するが、彼女の素顔はどこにあるのか彼女自身でさえもわからなくなっている。だから彼女は生年月日から相性を判断する「人格学」の本にすがるかのようだ。
ラストのユダヤ教徒とのシーンが唯一エロティックだ。彼女は傷つきながらも、現代の一断面であるエスコート嬢という役割を演じ、プロとして仕事を続けていく。それはサーシャ・グレイがアダルト女優として演じ続けていくことの意志であるかのようだ。映画と現実が重なる。ドラマチックではないが、プロとしての役割に徹しようと生きる資本主義社会の一断面を描こうとしている意欲的な作品だ。
原題:The Girlfriend Experience
監督・撮影・編集:スティーブン・ソダーバーグ
製作:グレゴリー・ジェイコブズ
製作総指揮:トッド・ワグナー、マーク・キュバーン
脚本:ブライアン・コッペルマン、デビッド・レビーン
キャスト:サーシャ・グレイ、クリス・サントス、フィリップ・アイタン、グレン・ケニー、ティモシー・デイビス、デビッド・レビーン、マーク・ジェイコブスン
製作国:2009年アメリカ映画
上映時間:77分
☆☆☆3
(カ)
tag : 愛