「水の声を聞く」山本政志

「闇のカーニバル」「ロビンソンの庭」「てなもんやコネクション」などパンクで暴力的で衝撃的な映画を作っていた山本政志監督。最近はあまり名前を見なかったけど(どうやら低予算で映画を作るシネマ☆インパクトのプロデューサーをやっていたらしい)、去年久しぶりの新作が話題になった。見逃していたので、東京出張時に懐かしの名画座で観る。
東京・新宿のコリアンタウンで、在日韓国人のミンジョンが巫女に祀り上げられたインチキ新興宗教の話である。まさに水槽が神殿となり、水の声を聞く巫女であるミンジョンを演じる玄里(ヒョンリ)がいい。宗教団体「真教・神の水」に救いを求めて集まてくる人たち。このインチキ宗教集団をビジネスとして大きくしようとする広告代理店の男を村上淳が演じている。宗教団体とビジネス。その狭間でミンジョンが悩みだしていく。自らの出自も含めて。現実に起きた済州島四・三事件(1948年3月に起きた島民虐殺事件)なども背景に民族の歴史と過去から未来へとつなぐ祈りの意味。さらにヤクザの借金取りに追われている父親もいい味を出している。金まみれの自己の欲望が肥大していくことと対極の祈り。いかがわしさも含めた人間の矛盾と閉塞感、迷いが描かれている。
製作年:2014年
製作国:日本
監督:山本政志
プロデューサー:村岡伸一郎
脚本:山本政志
撮影:高木風太
照明:秋山恵二郎
美術:須坂文昭
録音:上條慎太郎
編集:山下健治
音楽:Dr.Tommy
キャスト:玄里、趣里、村上淳、鎌滝秋浩、中村夏子、萩原利久
☆☆☆☆4
(ミ)
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「2つ目の窓」河瀬直美

奄美大島を舞台に、海と自然の中で抱かれながら暮らす少年・界人と少女・杏子との恋物語。界人を演じた村上虹郎は、映画のなかでも父親役を演じている村上淳と歌手・UAの息子だそうだ。少女役は、吉永淳。二人が裸で泳ぐ海の中のシーがを美しい。杏子の母イタ(松田美由紀)は、ユタ神様と慕われているが病に侵されている。庭にあるガジュマロの木が印象的に描かれる。父親役に杉本哲太。いつもの力の入った演技ではなく、島に暮らす男として力の抜けた感じがいい。常田富士男のとぼけたじいちゃんぶりもいい。ヤギの解体シーンから映画は始まるが、ところどころに感じられる意図的なシーンが少し余計だ。海や木や岩や大地に神々が宿る島。その人間と自然との共生が描かれるのはそれでいいのだけれど、やや図式的、意図的な構成を感じる。少年の性的葛藤も描かれる。母・岬(渡辺真起子)は東京で暮らす父(村上淳)と別居中で、どうやら恋人がいるらしい。オープニングで海に浮かぶ刺青男の死体が発見されるが、母と付き合っていた男らしい。母の性への嫌悪を感じつつ、東京の父親に会いに行く少年。そして、少女との性。死と再生と性と自然の循環。海外で高い評価のある河瀬直美監督だが、僕にはどうも映画がわざとらしく感じてしまう。
製作年:2014年 「Still the water」
製作国:日本・フランス・スペイン合作
配給:アスミック・エース
監督:河瀬直美
プロデューサー:青木竹彦、澤田正道、河瀬直美
脚本:河瀬直美
撮影:山崎裕
照明:太田康裕
録音:阿尾茂毅
美術:井上憲次
音楽:ハシケン
キャス:村上虹郎、吉永淳、杉本哲太、松田美由紀、渡辺真起子、村上淳、榊英雄、常田富士男
☆☆☆3
(フ)
「太陽が坐る場所」矢崎仁司

高間響子と鈴原今日子。二人の「きょうこ」をめぐる高校生時代の確執。「ツナグ」や直木賞を受賞した「鍵のない夢を見る」などの人気作家・辻村深月の同名ミステリーが原作だ。監督の矢崎仁司は自主映画時代からいろいろ観ていた。とくに「三月のライオン」は好きな映画で、久しぶりに矢崎監督の映画だということで期待して観た。
だけどあまり面白くなかった。辻村深月は読んだことないのでよくわからないが、高校生時代の響子の「太陽」をめぐる抽象的な台詞と体育館の描写。天の岩戸伝説になぞられた体育館の倉庫。皆既日食のメガネ。なんだかいろいろ演出しているんだけど、うまくいっているとは思えない。高校生時代の幼いやり取りでしかない。せつなさも青春の疼きもあまりない。何より水川あさみはうまくない。魅力的にも描かれていない。それは高校生時代の登場人物たちも同じだ。体育館の光だけが懐かしく印象に残った映画だった。
製作年:2014年
製作国:日本
配給:ファントム・フィルム
監督:矢崎仁司
原作:辻村深月
脚本:矢崎仁司
製作:野口英一
企画:中村一政、今村睦
撮影:石井勲
美術:布部雅人
音楽:田中拓人
キャスト:水川あさみ、木村文乃、三浦貴大、森カンナ、鶴見辰吾
☆☆☆3
(タ)
「紙の月」吉田大八

ありがちな話である。ありがちに女性銀行員が年下の若い男と不倫をし、ありがちに横領をする。ありがちに愛を確認するためにロレックスやカルティエの腕時計をプレゼントに贈り、銀行の次長は女性行員とありがちに不倫をし、隠し口座を作って数字を誤魔化したりするが、女性行員はお堅い公務員とアッサリ結婚したりする。べテラン女性行員は辞めろとばかりに銀行から本社総務に異動を命じられる。どれもこれもありがちな話だ。
共感できる映画ではない。なぜ梨花(宮沢りえ)が表向き平穏な家庭を捨ててまで、若い男との激しい恋に落ちたのか?あるいは、なぜ彼女は若い男を助けるために銀行の金を横領までしたのか?心理的動機がしっかり描かれているわけではないので、観客は主人公に共感などできない。だから感動するタイプの映画ではない。なんだかなぁ~と、ちょっと虚しくなる映画である。この世の中ってなんなのだろう?本当ってどこにあるんだろう?なんて考えながら、虚しくなる映画である。
ただ、映画としてはとても優れた映画だった。窓ガラスをたたき割り、銀行の部屋から逃げ出し疾走する宮沢りえはやはりカッコよく、インパクトのある映像になっている。横領を見破って「あなたが行けるところはここまで」と引導を渡そうとした小林聡美の目の前で、窓ガラスを叩き割り、「一緒に行きますか」と挑発しさえする。ありがちの世界を一気に飛び越える。
何よりこの映画はキャストの誰もが素晴らしい。難しい役どころを見事に演じきった宮沢りえ、彼女をそそのかすような現代っ子の同僚、大島優子が意外にいい(TV「安堂ロイド」でも好演していた)。そしてなんともいい加減な男の子を演じた最近やたらと出まくっている池松壮亮(「MOZU」「海を感じる時」にも出ていたが、つかみどころがない役がうまい)、いかにもいそうなエロ上司の近藤芳正、さらに梨花の横領を見破る小林聡美の無表情な演技が本当に素晴らしい。
さて、この映画はバブル期以降の銀行員の横領事件を描いた男女のもつれが発端のワイドショーネタになるような下世話な話だ。そんな下世話でありがちな話でありながら、どこか現代社会を洞察する鋭い映画になっているのはなぜなんだろう。これは恋愛ドロドロの映画ではない。お金についての映画である。資本主義的欲望と快楽、お金をまわし、使うことをめぐる物語だ。
小林聡美は「預かったお金がどう流れていくか」に興味があり、石橋蓮司は「お金を殖やせ」ではなく、「増えた利子でお金を使うことを楽しめ」と梨花に言われたことに興味を持つ。カトリックの女学生時代、恵まれない子供たちに寄付することの正しさのために、父の財布のお金を盗んだ梨花は、好きになった年下の恋人の学費のために、恋人の祖父の預金を横領する。恵まれた者たちの貯蔵されたお金を、恵まれぬ、貧しき必要な人たちにまわすことは、理屈の上では同じだ。寄付と横領。資本主義とはお金を回すことで経済が成り立つ。紙のお札を価値あるものとして約束事を作り、消費する欲望こそが経済を動かす。ボケ気味のおばあちゃん、中原ひとみはニセモノであることを知りつつも「きれいだからいいじゃない」と高価なアクセサリーにお金を出す。お金がまわれば、経済がまわり、社会が成立する。ニセモノでもあぶく銭でも金がまわれば繁栄する。法的な約束事があるかないかを別にすれば、この世の中はみんな幻想=「紙の月」で動いているのかもしれない。「紙の月」を「本物の月」と思っているだけかもしれない。その約束事やルールを一度踏み越えてしまうと、その境目は一気に崩れる。資本主義的快楽に身をゆだね、自分ではどうしようも出来なくなる。バブル経済で儲けた人もITバブルのホリエモンも、みんなその快楽に囚われた。その虚しさがこの映画にはある。寄付と横領と金融バブルと再分配…。いったいどこが違うのだろう。まさに同じような金融資本主義的快楽を描いたM・スコセッシとディカプリオの「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を思い出す。善悪を超えた快楽と欲望。
ありがちな話にこの世は満ちている。ありがちな約束事でこの世は動いているのだ。しかし、そのありがちな約束事を疑い、踏み越えれば、世界はすぐに壊れてしまう。月は「紙の月」なり、空から消すことさえできる。いつか終わるとわかっていながらも、その妄想の快楽にはまり込む。だから梨花は、小林聡美が限界を指摘する現実を一気に叩き壊して、逃げ出す。それは資本主義的約束事から飛び出すかのようだ。いったいどこへ?
「行くべきところに行くだけです」とは、そのシステムの強じんさへの諦めなのか、空虚感なのか、やけっぱちの絶望なのか。あるいはアジアで街角で出会った顔に傷のあるかつての少年のように、それは希望なのか、誰にもわからない。
私たちが見ている月が実は「紙の月」だとわかっていても、その「紙の月」を美しいと感じらるささやかな幸福感を大切に噛みしめるしかないのではないか、と思った。
原作は読んでいないのですが、銀行員の大島優子と小林聡美の存在は、映画ならではのものだそうです。梨花を演じる宮沢りえを取り巻くこの二人の存在が銀行でのサスペンスを盛り上げています。銀行での描写はきわめて映画的です。疑惑の目を向ける小林聡美の視線と大島優子の悪魔のささやき、札束を数えたり、証書の保管や事務処理の動作にサスペンス的緊張感が見事に描かれています。
製作年:2014年
製作国:日本
配給:松竹
監督:吉田大八
原作:角田光代
脚本:早船歌江子
製作総指揮:大角正
撮影:シグママコト
照明:西尾慶太
美術:安宅紀史
衣装:小川久美子
音楽:little moa、小野雄紀、山口龍夫
キャスト:宮沢りえ、池松壮亮 、大島優子、田辺誠一、近藤芳正、石橋蓮司、小林聡美、平祐奈、佐々木勝彦、天光眞弓、中原ひとみ
☆☆☆☆4
(カ)
「海を感じる時」安藤尋

長回しの間合いの映画である。短いカットを積み重ねて、編集でリズムを作るような映画ではない。だからなんとなく間延びしているようにも感じる。まったりとした恋愛映画である。市川由衣のヌードや性描写が話題になっているが、今の映像の編集のテンポに慣れている人たちには、かったるく感じるだろう。たとえば、服を脱いでベッドや布団に入る場面を同じワンカットで撮っている。服を脱ぐ動作がそのまま編集されずに映されている。最初の新聞部の部室での初めてのキス。二人が間合いを詰めて、キスするまでの時間をじっくりゆっくり撮っている。顔のアップの切り替えしなど入れない。芝居の間合いたっぷりに、その実時間をそのまま引きの画面で撮りつづける。そんな場面ばかりなのだ。だから、テンポは出ない。まったりとしてくる。そこに空気の密度を感じられないと、ただただかったるいだけの映画になる。
酔っぱらった恵美子(市川由衣)が公園で電燈に石をぶつけるシーンがある。何度も石を投げるが当たらない。しばらくすると、さっき店にいた男がやってきて、彼女のそばにくる。男の顔は見えないが、カメラはずーっと俯瞰ショットで長回ししている。あるいは、植物園で「ついてくるな」と洋(池松壮亮)が走り去ろうとするのをひたすら恵美子が追いかける場面がある。「してくれなきゃ、帰れない」と、恵美子が座り込んでしまう予告編でも使われている場面だ。これも、決して恵美子の顔をアップで撮ったりはしない。画面は引きのままだ。
つまり、もどかしいまでの戸惑いやジタバタ感やどうしていいかわからない登場人物たちの行動を、カメラは執拗なまでの芝居そのままの間合いで捉え続ける映画なのだ。ある意味、若い二人の役者たちを信頼した作りかただ。決して、編集やカメラの映像テクニックでごまかしたりはしない。そういうところが好感が持てる映画だった。
ただ当時18歳の作家の中沢けいが1978年に発表した作品を、なぜ今さらやるの?という疑問は解けないままだった。荒井晴彦の脚本は、30年前に書かれたものをほとんどそのまま使ったという。映画の時代設定は、当時のものだ。アパートも古臭いし、二人の服装も当時を意識している。恵美子が新聞部に部室で「朝日ジャーナル」を読んでいるというのも、なんだかとってつけたようなわざとらしさだった。市川由衣や池松壮亮の身振りや口調には、当時を感じさせてくれるようなものはない。そのギャップが、なんだか居心地の悪いものだった。あの時代の男女の何かが、今に響く何かになっているのか。あの時代の男女を見て、今の人たちが共感できる何かがあるのか。
男女の性の葛藤と親との確執、そして成長の物語は確かに普遍的なものだ。母親役の中村久美は熱演していて、親の子供に対する思いもしっかりと伝わってくる。ただ、今の時代感覚の親子関係では当然ない。抱いてもらえることを必死に洋に懇願する恵美子の女性像もまた現代の女の子たちと比べると大きな隔たりがある。いまどき、こんな一図で必死な女の子はいないだろう。だからこそ、この時代の男女のひたむきさ、不器用さ、真面目さにこそ、現代の若者たちが取り戻すべき何かがあるというのか。よくわからない。
脚本の荒井晴彦の監督作品で「身も心も」というのがあった。音楽に下田逸郎の「セクシィ」(石川セリの歌)が使われていたのを記憶している。今回のエンディングテーマも同じ下田逸郎の「泣くかもしれない」をホームレスハートがカバーしている曲を使っていた。きっとこれは、荒井晴彦の趣味なんだろう。下着姿で「海を感じている」恵美子の思いに、いい感じで最後に歌が流れてくる。確かに、あの頃の音楽でもちゃんとアレンジや歌う人が変わると、今の時代でも心に響いてくる。そんな風にこの映画がなっているかが評価の分かれ目なんだろうな。この歌、「泣くかもしれない」のように。
製作年:2014年
製作国:日本
配給:ファントム・フィルム
監督:安藤尋
製作:藤本款、重村博文、小西啓介
プロデューサー成田尚哉尾西要一郎
原作:中沢けい
脚本:荒井晴彦
撮影:鈴木一博
キャスト:市川由衣、池松壮亮、阪井まどか、高尾祥子、三浦誠己、中村久美
☆☆☆3
(ウ)