「アンジェリカの微笑み」マノエル・デ・オリヴェイラ

2015年4月に106歳で亡くなったポルトガルの名匠マノエル・ド・オリベイラ監督の101歳の時の作品。奇妙な作品だ。去年公開の映画をやっと観れました。
オープニングは、雨の夜、ポルトガルの町の石畳の路地にライトをつけた車が写真屋の前で止まり、一人の男が出てくる。お屋敷の執事である男は、深夜に写真家を探しているらしい。ロングのワンカットの中で、その写真屋の2階の明かりが灯り、奥さんが現れ、主人が不在であることを告げる。サスペンスのような始まりだ。そして、通りがかりの男が別の写真家の若者を紹介する。その男がイザク。
旧約聖書では、神に信仰を試されたアブラハムは、息子であるイサクを生け贄にすることを求められ、イサクは焼き殺されそうになる。「彼は笑う」という意味のイサク。イサクは受け身の選ばれし存在であり、アブラハムの息子イサクの子孫がユダヤ人なのである。だからイサクという名前はユダヤ人そのものと言えるのかもしれない。
お屋敷に連れて行かれたこの写真家イザクは、白い死装束の美女アンジェリカの写真を撮るように言われます。名前を聞かれたイザクは、キリスト教徒のお屋敷の家族に怪訝な顔をされます。ユダヤ教とキリスト教の距離感がそこで描かれます。
そして、イザクがアンジェリカにレンズを向けると、突然死んでいるはずのアンジェリカが目を覚まし、イザクに微笑みかけるのです。死に魅入られたイザクは、その後、アンジェリカに恋をし、寝ても覚めてもアンジェリカの虜のなるというのがこの物語です。そして、まるでシャガールの絵のように、アンジェリカとともに天空へと消えていくのです。
愛と死の世界と対称的に描かれるのが、イザクの部屋の川向うのブドウ園で働く農夫たちです。労働歌を歌いながら、昔ながらの鍬で大地を耕す。なんでも機械化されている時代にあって、あえて鍬による手作業と労働歌が美しき力強きものとして象徴的に描かれます。機械とか、アパートの下を通る車の映像や音が正反対のうるさい雑音として表現されます。
イザクが魅入られるのは、機械化された近代社会ではなく、昔の時間にあるようです。鳥かごの小鳥もアンジェリカの象徴として描かれます。飛翔、そして過去へのレンズを通した時間旅行。死からの甦り。
物語は幻想的なのだが、どこかユーモラスなタッチの映画だ。アンジェリカの最初の微笑みも、イザクのもとへの現れ方もなんだかユーモラスだ。アパートの女主人や住人も、お屋敷の人物たちや物乞いの浮浪者も滑稽なのだ。なんだか最高齢の映画監督にからかわれているような変な映画なのである。
オリベイラ監督はあまり観ていないのだが、ルイス・ブニュエルの『昼顔』のその後を撮った『夜顔』を観た。これも人を食ったような映画だった。
映画の向こうで、観客の反応を見て、天国のオリヴェイラ監督が微笑んでいるような、そんな映画だ。
「夜顔」レビュー
原題:O Estranho Caso de Angelica
製作年:2010年
製作国:ポルトガル・スペイン・フランス・ブラジル合作
配給:クレストインターナショナル
上映時間:97分
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
製作:フランソワ・ダルテマール
脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
美術:クリスティアン・マルティ、ジョゼ・ペドロ・ペーニャ
衣装:アデライド・トレパ
編集:バレリー・ロワズルー
キャスト:リカルド・トレパ、ピラール・ロペス・デ・アジャラ、レオノール・シルベイラ、ルイス・ミゲル・シントラ、アナ・マリア・マガリャーエス、イザベル・ルト、サラ・カリーニャス、リカルド・アイベオ、アデライデ・テイシェイラ
☆☆☆☆4
(ア)
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「夏をゆく人々」アリーチェ・ロルバケル

第67回カンヌ国際映画祭で審査員グランプリ作品。イタリアの田舎町トスカーナ地方での養蜂を営む家族のひと夏の物語。4人姉妹の長女の名前はジェルソミーナ。フェリーニの『道』を思い出す。
田舎の頑固おやじは、厳しく子供たちに養蜂の仕事を手伝わせている。とくに長女のジェルソミーナにはかなりの仕事を任せている。そんなジェルソミーナが地元で生活を営む家族を取り上げるテレビ番組「不思議の国」に出たいと言い出す。番組の司会をしている女神のような女性(モニカ・ベルッチ)にも惹かれるのだ。それは自分たちの田舎とは別世界。古代遺跡でのロケやテレビ番組の撮影場面などはフェリーニの映画を少し思い出す。しかし、頑固オヤジは「テレビなんてくだらない」とOKしてくれない。そんなとき、未成年で犯罪を犯して施設に入っている少年を家で預かることになる。養蜂の仕事を手伝わせて更生させようというプログラムの一環だ。田舎の家族だけの生活が、その少年の存在とテレビ番組の出演によって、違う風が吹き込んでくる。
養蜂といえば『ミツバチのささやき』という永遠の名作がある。養蜂は古くから自然の恵みとともに暮らす人々の営みであったらしい。決して近代の産業ではない。家族だけの営みで、昔から変わらないやり方で自然とともに暮らす人々。そんな今風に言えばスローフード的な生活がテレビ番組によって注目される。テレビで取り上げられた別の家族は、アグリツーリズムをやりたいなんて言っている。
ラスト、テレビ番組収録のお祭り騒ぎの最中に、少年が島で行方不明となり、後日ジェルソミーナはその少年を探しに行く。少年と少女の島での洞窟での交感、二人の影は、古代から延々と続く男女の姿のようでもある。そして、ジェルソミーナは、庭でひとつのベッドに一緒に眠る家族の元に戻ってくる。自然の大地の前で、体を寄せ合う家族。そして、カメラはその家族からパンをすると、荒れ果てた不在の家を映し出す。それはこの映画が、歴史や時代を越えた家族の幻そのものを描いたものであり、一種の寓話の趣きが満ちてくる。古代から変らぬ自然とともにある家族の営みこそが美しく尊いものなのだ。
原題:Le meraviglie
製作年:2014年
製作国:イタリア・スイス・ドイツ合作
配給:ハーク
上映時間:111分
監督:アリーチェ・ロルバケル
脚本:アリーチェ・ロルバケル
撮影:エレーヌ・ルバール
編集:マルコ・スポレンティーニ
キャスト:マリア・アレクサンドラ・ルング、サム・ルーウィック、アルバ・ロルバケル、ザビーネ・ティモテオ、アンドレ・ヘンニック、
マルガレーテ・ティーゼル、モニカ・ベルッチ
☆☆☆☆4
(ナ)
「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド

セバスチャン・サルガドの写真が凄い。
遅ればせながら、やっとヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー映画「セバスチャン・サルガド / 地球へのラブレター」を観た。
ブラジル出身のセバスチャン・サルガドは、写真を撮り始めたのは30代の頃からだという。経済学者でもあった彼は、その後フォトグラファーとして約40年間にわたって世界各国で撮影を行い、人間のさまざまな姿、破壊、虐殺、飢餓、貧困、戦争、死などを撮った。しかし、人間の多くの死を撮り過ぎたために、ダメになった。心が病んでしまった。
そして、故郷のブラジルに帰った。しかし、そこにはかつての熱帯雨林の森は破壊されてなくなり、枯れた大地だけがあった。彼は妻とともに木を植え、森を再生させた。そして、破壊されたものを撮るのではなく、地球の原初の姿を撮り始めた。2004年から始めたプロジェクト『Genesis』。「地球上で最も美しい場所」を求め、ガラパゴスやアラスカ、サハラ砂漠などを歩いたという。
映画は、そんな写真家フォトグラファーのドキュメンタリーである。光と影で表現する人。ただただ、その写真に圧倒される。
札幌の小さな映画館では、今回の上映に先立ち、東北の震災で被害に遭った映画館主の活動のトークショーが行われた。震災直後に戸惑いながらスタートさせた上映会、「ドラえもん」での子供たちの笑顔。こんな時だからこそ、映画を観る娯楽が求められたこと。
福島の原発事故で自主避難区域に指定され、自分ですべてを決めなければいけなかった苦悩。チェルノブイリ原発事故のドキュメンタリーを観ていた自分の身に、まさか放射能汚染の恐怖が押し寄せてくるという戸惑い。そして、非日常的なのに日常を振る舞わなければいけない矛盾と葛藤。年間数百本の映画を観ていたシネフィルの映画館主は、映画そのものを観ることが出来なくなったという。現実の非日常性が、映画のフィクションよりも劇的だったということ。そんな話を聞くことが出来た。
数多くの人間の暴力や残虐性や社会の矛盾を写真に収めてきた写真家は、地球そのものの力や美しさに目を向けるようになった。そして、その力のある美しさを二度と失ってはならないと呼びかける。人間や動物の圧倒的な存在、自然とともに生きる少数民族の美しさ。それは地球への共感と愛のまなざしそのものであった。
原題:Le sel de la terre
製作年:2014年
製作国:フランス・ブラジル・イタリア合作
配給:レスペ、トランスフォーマー
上映時間:110分
監督:ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド
製作:デビッド・ロジエール
脚本ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド、デビッド・ロジエール
撮影:ヒューゴ・バルビエ、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド
音楽:ローレント・ピティガント
キャスト:セバスチャン・サルガド
セバスチャン・サルガド写真
☆☆☆☆4
(セ)
「ソロモンの偽証 前篇・事件/後篇・裁判 」成島出
CSの日本映画専門チャンネルで放送していたので、録画して前・後編を見た。2015年日本映画の話題作である。
さすがに宮部みゆきの緻密な原作だ。前編・後編にまたがっての公開だったが、決して飽きさせず、学生たちによる学校内裁判ですべての謎が判明するまでを成島出監督の見事な演出で一気に見せていて、見応え十分であった。
中学生の子供たちが主役である。特にオーディションで抜擢された藤野涼子の意志の力を感じさせる強いまなざしと表情には惹かれるものがあった。最後まで物語を引っ張る彼女の姿は清々しい。
このドラマにはさまざまな役割の子供たちが登場するが、誰もがいい。いじめる側もいじめられる側も、それを見ているだけで何もできない優等生の苦悩も、嘘や秘密を抱える子供たちも、それぞれが見事に演じていて、成島出監督の演出手腕と言えるだろう。聞くところによると、実際の撮影現場で、すでに死んでしまった役の少女の声を聞かせたり、その死んだ子の姿を演じている子どもたちに見せながら、見事なリアリティある泣きのシーンを演出したそうだ。そんな子供たちの熱演を、脇役の先生や家族たちが支えている。とにかく、そうそうたるキャスト陣なのだ。個人的には、イヤな先生役の安藤玉恵、木下ほうかがいい。永作博美、黒木華、田畑智子、塚地武雅、江口のりこ、市川実和子、松重豊なども存在感がある。
人は見えるものしか見ようとしない・・・。さまざまなバイアスが真実を歪ませる。その一つ一つの歪められた出来事を、丁寧に真摯に解き明かしていく作業が、どれだけ困難なことなのかを教えてくれる。その歪められた現実に、中学生のこどもたちが真正面から取り組んでいることろが未来に希望を感じさせてくれる。学校での陰湿ないじめの話だが、観終わった印象は悪くない。「私たち、負けなかったよね」というやり遂げた藤野涼子の台詞が清々しい。
製作年:2015年
製作国:日本
配給:松竹
上映時間:121分/151分
監督:成島出
原作:宮部みゆき
脚本:真辺克彦
製作総指揮:大角正
撮影:藤澤順一
照明:金沢正夫
美術:西村貴志
音楽:安川午朗
キャスト:藤野涼子、板垣瑞生、石井杏奈、清水尋也、富田望生、前田航基、望月歩、西畑澪花、若林時英、西村成忠、加藤幹夫、石川新太、佐々木蔵之介、夏川結衣、永作博美、黒木華、田畑智子、池谷のぶえ、塚地武雅、田中壮太郎、市川実和子、江口のりこ、森口瑤子、安藤玉恵、木下ほうか、井上肇、高川裕也、中西美帆、宮川一朗太、嶋田久作、余貴美子、松重豊、小日向文世、 尾野真千子
☆☆☆☆4
(ソ)
さすがに宮部みゆきの緻密な原作だ。前編・後編にまたがっての公開だったが、決して飽きさせず、学生たちによる学校内裁判ですべての謎が判明するまでを成島出監督の見事な演出で一気に見せていて、見応え十分であった。
中学生の子供たちが主役である。特にオーディションで抜擢された藤野涼子の意志の力を感じさせる強いまなざしと表情には惹かれるものがあった。最後まで物語を引っ張る彼女の姿は清々しい。
このドラマにはさまざまな役割の子供たちが登場するが、誰もがいい。いじめる側もいじめられる側も、それを見ているだけで何もできない優等生の苦悩も、嘘や秘密を抱える子供たちも、それぞれが見事に演じていて、成島出監督の演出手腕と言えるだろう。聞くところによると、実際の撮影現場で、すでに死んでしまった役の少女の声を聞かせたり、その死んだ子の姿を演じている子どもたちに見せながら、見事なリアリティある泣きのシーンを演出したそうだ。そんな子供たちの熱演を、脇役の先生や家族たちが支えている。とにかく、そうそうたるキャスト陣なのだ。個人的には、イヤな先生役の安藤玉恵、木下ほうかがいい。永作博美、黒木華、田畑智子、塚地武雅、江口のりこ、市川実和子、松重豊なども存在感がある。
人は見えるものしか見ようとしない・・・。さまざまなバイアスが真実を歪ませる。その一つ一つの歪められた出来事を、丁寧に真摯に解き明かしていく作業が、どれだけ困難なことなのかを教えてくれる。その歪められた現実に、中学生のこどもたちが真正面から取り組んでいることろが未来に希望を感じさせてくれる。学校での陰湿ないじめの話だが、観終わった印象は悪くない。「私たち、負けなかったよね」というやり遂げた藤野涼子の台詞が清々しい。
製作年:2015年
製作国:日本
配給:松竹
上映時間:121分/151分
監督:成島出
原作:宮部みゆき
脚本:真辺克彦
製作総指揮:大角正
撮影:藤澤順一
照明:金沢正夫
美術:西村貴志
音楽:安川午朗
キャスト:藤野涼子、板垣瑞生、石井杏奈、清水尋也、富田望生、前田航基、望月歩、西畑澪花、若林時英、西村成忠、加藤幹夫、石川新太、佐々木蔵之介、夏川結衣、永作博美、黒木華、田畑智子、池谷のぶえ、塚地武雅、田中壮太郎、市川実和子、江口のりこ、森口瑤子、安藤玉恵、木下ほうか、井上肇、高川裕也、中西美帆、宮川一朗太、嶋田久作、余貴美子、松重豊、小日向文世、 尾野真千子
☆☆☆☆4
(ソ)
「さよなら、人類」ロイ・アンダーソン

(C)Roy Andersson Filmproduktion AB
何度でも観たくなる映画であり、まったく唖然とする映画だ。ワンシーンワンカットの長回しの39シーン。すべてセットで撮影したという。つまり全てロイ・アンダーソンの世界観そのままに作り込んだ作品。セットの美術や人物の配置、配色や小道具・衣裳の細部に至るまで監督が意図して作られた世界。野外に見える風景も全部セットの絵(背景画)だそうだ。まさに壮大なアナログな映画だ。『散歩する惑星』『愛おしき隣人』に続く3部作の最終章として4年の歳月をかけて完成させたという。このスピード時代に4年だ。ワンシーンワンシーン、時間をかけてセットを建てこみ、モノの配置や人物の位置と動きを決め、作り込んでいったのだろう。今の時代、これだけこだわれる映画監督はあまりいないし、これが作れるスウェーデンの映画事情も素晴らしい。公式HPを読むと、ロイ・アンダーソン組と呼ばれる専属スタッフは10人だったという。手作り感がよくわかる。2014年のヴェネチア国際映画祭、金獅子賞(グランプリ)受賞。
ある人にとっては、「何コレ!?」と呆気にとられ、ある人は怒って劇場から出ていくでしょう。だからおススメはしません。好きな人には好きな世界です。可笑しみをこらえながら、人生の皮肉と哀感と滑稽さを感じ、何度でも見直したくなる作品です。
一つのストーリーはありません。どちらかというとシチュエーションコントです。バカバカしい面白グッズを売り歩くセールスマン、サムとヨナタンが度々登場し、些細な諍いを繰り広げるというエピソードがベースにあります。面白グッズでまわりを楽しくさせたいと考える二人ですが、誰も笑わないし、だれもグッズを買わない。「ゴドーを待ちながら」の二人のような不条理劇とも言える人間味あふれる二人のセールスマンです。
基本的にはエピソードの羅列です。死をめぐるエピソードがまず3つ。宝石の入ったバッグを天国に持っていこうとする老女、ワインを開けようとして心臓発作で倒れる夫と何も知らない台所の妻、フェリーのカフェテリアで倒れた男のサンドイッチとビール、「誰か食べる人いませんか?」って、あまりにもとぼけていてシュールすぎる。そのほか、理髪師になる船酔いするフェリー船長、若い男に恋するフラメンコダンサーなどユニークな人物が続々登場する。立寄ったバーで働く青年に言い寄る国王カール12世、現代のバーに立ち寄るスウェーデン国王率いる18世紀の騎馬隊、そして囚人たちの巨大な殺人マシーン。人間の孤独と悲哀と滑稽さ。原題「生存を熟考する枝の上の鳩」にあるように、枝の上の鳩が人間たちを見下ろしている世界なのか。カタルシスも結論もオチも何もない。「今日は木曜日?」「水曜日じゃなかった?」と投げ出された問いは、そのまま宙ぶらりん。それでも人生は続くのだ。余白を楽しむ痛快な映画だ。ちょっと眠くもなるけれど。
同じようなタイトルのたまの歌があったなぁ。
ロイ・アンダーソン作品レビュー
原題:En duva satt pa en gren och funderade pa tillvaron(生存を熟考する枝の上の鳩)
製作年:2014年
製作国:スウェーデン・ノルウェー・フランス・ドイツ合作
配給:ビターズ・エンド
上映時間:100分
監督:ロイ・アンダーソン
製作:ペニラ・サンドストロム
脚本:ロイ・アンダーソン
撮影:イストバン・ボルバス
キャスト:ホルガー・アンダーソン、ニルス・ウェストブロム
☆☆☆☆4
(サ)