「ガラスの街」ポール・オースター 柴田元幸訳
ポール・オースターは好きで結構読んでいる。このブログには、「幻影の書」と「ブルックリン・フォーリーズ」のレビューしか挙がっていないが、「シティ・オブ・グラス」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」のニューヨーク三部作、「ムーン・パレス」「偶然の音楽」などの本が手元にある。そしてこの本は、「シティ・オブ・グラス」(山本楡美子・郷原宏訳)として初訳が出ていたものを、柴田元幸氏が再び訳し直したものである。だからずいぶん前に読んでいたのだが、すっかり忘れていたという始末。
「孤独の発明」に続いてポール・オースターの2作目という初期のものである。訳者のあとがきによると、この小説はあちこちの出版社に持ち込んでも出版を断られ続けたそうだ。探偵小説の体裁をとっていながら、事実はいっこうに明らかにならないし、事件の解決もされないことから断られたのではないかと、柴田元幸氏は解説している。そうなのだ。事件はちっとも解決しないし、探偵を演じたクイン氏そのものが赤いノートを残して行方不明になって終わるのだ。
そもそもクイン氏というものが何者なのかよくわからない。35歳だったらしいこと、かつて妻がいて息子もいたらしいのだが、二人とも死んでしまったようだ。なぜ死んだのかも不明。クイン氏はその不在の哀しみを抱えて、探偵小説を書いてひっそり暮らしている。ウィリアム・ウィルソンという名前を使って、著者の写真も経歴も伏せたまま、エージェントと接触もせず、原稿を送り、お金を得ていただけだ。まさに抽象的な人物。誰一人友人もいないし、接触する人間はいない。クインはニューヨークの街をひたすら散歩することが好きだった。
クイン氏のところに夜に間違い電話がかかってくる。「ポール・オースターさんですか?」と。クインはポール・オースターという男を名乗り、その間違い電話の依頼である事件の探偵として関わることになるのだ。依頼者はピーター・スティルマン。彼の本名は、「ピーター・ラビット。冬はミスター・ホワイト、夏はミスター・グリーン」などと言う。名前など意味がなく、翻訳不可能な言葉を語る。父親のピーター・ステイルマンに小さい頃からずっと監禁され、自由と言葉を奪われたのだ。その回復過程にある現在において、刑務所から出てきた父、ピーター・スティルマンが彼を殺しにやってくるから守ってくれという依頼だった。
クインはポール・オースターになって、自分の分身のウィリアム・ウィルソンが書いた探偵小説の探偵のように、ピーター・ステイルマンを尾行する。街をブラブラして、落ちている無用なモノたちを回収するスティルマン。ピーター・ステイルマンは新たな言葉を作り出そうとしていた。バベルの塔の建設で人間が犯した言葉の過ちを正そうと、新バベルの建設を考えていたようだ。息子の監禁も言葉を奪うことで何かを実験していたかのようである。クイン氏は、何日もピーター・スティルマンの不可解な散歩を尾行し続けるのだが、ある時、彼を見失ってしまう。そして、自分がなぜポール・オースターと間違えられたのかを知るために、作家のポール・オースター氏に会いに行く。ポール・オースター氏から語られる「ドン・キホーテ」とセルバンデスの関係について論じた話も興味深い。「ドン・キホーテ」の物語のすべては、ドン・キホーテの仕掛けた罠であり、嘘やナンセンスをどこまで信じるかの実験だったのだという「ドン・キホーテ」論を書いていた。実験?仕掛けた罠?とすると、この奇妙な依頼もまた誰かが仕掛けた罠なのか?
ピーター・スティルマン氏の息子の言葉を奪う実験。そして言葉を作り出そうとする新バベルの塔の建設とは、作家そのもののようでもある。街をさまよい、見続ける。そして言葉にすること。クイン氏は、ウィリアム・ウィルソンという名の作家であり、作家ポール・オースターという名の探偵となり、尾行をする。名前は次々と変わり、自分とは何者でもなく、何者にもなれる。
ピーター・スティルマンを見失ったクインは、浮浪者のようになりながら何日も息子のピーター・スティルマンの建物を見張り続けるのだが、そのピーター・スティルマンもいなくなってしまう。父親のピーター・スティルマンは自殺したという知らせをポール・オースターから聞き、すべて謎のまま投げ出され、クインもまた赤いノートにこれまでのことを書き続けて、いなくなってしまうのだ。こうやって物語を書いていても、何が何だか分からない。
街を歩き、さまようことで、自分が一個の眼となり、空虚なものとなる。それは街そのものであり、どこにもいないことである。あるのは言葉だけ。赤いノートに記され言葉だけがあり、小説がある。最後にアフリカから帰ってくるというポール・オースターの友人である「私」がクインの赤いノートから、この小説「ガラスの街」を書いたとされるのだが、そもそもその「私」とは誰なのか。ポール・オースターなのか、クインなのか、ウィリアム・ウィルソンなのか、それとも別の誰かなのか、よくわからない。作家とは誰でもない誰かであり、虚ろな存在でしかない。そしてそれは、私たちもまた、誰でもない誰かになりうるし、虚ろな存在であるということでもあるのだ。
「孤独の発明」に続いてポール・オースターの2作目という初期のものである。訳者のあとがきによると、この小説はあちこちの出版社に持ち込んでも出版を断られ続けたそうだ。探偵小説の体裁をとっていながら、事実はいっこうに明らかにならないし、事件の解決もされないことから断られたのではないかと、柴田元幸氏は解説している。そうなのだ。事件はちっとも解決しないし、探偵を演じたクイン氏そのものが赤いノートを残して行方不明になって終わるのだ。
そもそもクイン氏というものが何者なのかよくわからない。35歳だったらしいこと、かつて妻がいて息子もいたらしいのだが、二人とも死んでしまったようだ。なぜ死んだのかも不明。クイン氏はその不在の哀しみを抱えて、探偵小説を書いてひっそり暮らしている。ウィリアム・ウィルソンという名前を使って、著者の写真も経歴も伏せたまま、エージェントと接触もせず、原稿を送り、お金を得ていただけだ。まさに抽象的な人物。誰一人友人もいないし、接触する人間はいない。クインはニューヨークの街をひたすら散歩することが好きだった。
散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。街路の動きに身を委ね、自分を一個の眼に還元することで、考えることの義務から解放された。それがある種の平安をもたらし、好ましい空虚を内面に作り上げた。(中略)あてもなくさまようことによって、すべての場所は等価になり自分が、どこにいるかはもはや問題ではなかった。散歩がうまくいったときは、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった―‐どこにもいないこと。ニューヨークは、彼が自分の周りに築き上げたどこでもない場所であり、自分がもう二度とそこを去る気がないことを彼は実感した。
クイン氏のところに夜に間違い電話がかかってくる。「ポール・オースターさんですか?」と。クインはポール・オースターという男を名乗り、その間違い電話の依頼である事件の探偵として関わることになるのだ。依頼者はピーター・スティルマン。彼の本名は、「ピーター・ラビット。冬はミスター・ホワイト、夏はミスター・グリーン」などと言う。名前など意味がなく、翻訳不可能な言葉を語る。父親のピーター・ステイルマンに小さい頃からずっと監禁され、自由と言葉を奪われたのだ。その回復過程にある現在において、刑務所から出てきた父、ピーター・スティルマンが彼を殺しにやってくるから守ってくれという依頼だった。
クインはポール・オースターになって、自分の分身のウィリアム・ウィルソンが書いた探偵小説の探偵のように、ピーター・ステイルマンを尾行する。街をブラブラして、落ちている無用なモノたちを回収するスティルマン。ピーター・ステイルマンは新たな言葉を作り出そうとしていた。バベルの塔の建設で人間が犯した言葉の過ちを正そうと、新バベルの建設を考えていたようだ。息子の監禁も言葉を奪うことで何かを実験していたかのようである。クイン氏は、何日もピーター・スティルマンの不可解な散歩を尾行し続けるのだが、ある時、彼を見失ってしまう。そして、自分がなぜポール・オースターと間違えられたのかを知るために、作家のポール・オースター氏に会いに行く。ポール・オースター氏から語られる「ドン・キホーテ」とセルバンデスの関係について論じた話も興味深い。「ドン・キホーテ」の物語のすべては、ドン・キホーテの仕掛けた罠であり、嘘やナンセンスをどこまで信じるかの実験だったのだという「ドン・キホーテ」論を書いていた。実験?仕掛けた罠?とすると、この奇妙な依頼もまた誰かが仕掛けた罠なのか?
ピーター・スティルマン氏の息子の言葉を奪う実験。そして言葉を作り出そうとする新バベルの塔の建設とは、作家そのもののようでもある。街をさまよい、見続ける。そして言葉にすること。クイン氏は、ウィリアム・ウィルソンという名の作家であり、作家ポール・オースターという名の探偵となり、尾行をする。名前は次々と変わり、自分とは何者でもなく、何者にもなれる。
ピーター・スティルマンを見失ったクインは、浮浪者のようになりながら何日も息子のピーター・スティルマンの建物を見張り続けるのだが、そのピーター・スティルマンもいなくなってしまう。父親のピーター・スティルマンは自殺したという知らせをポール・オースターから聞き、すべて謎のまま投げ出され、クインもまた赤いノートにこれまでのことを書き続けて、いなくなってしまうのだ。こうやって物語を書いていても、何が何だか分からない。
街を歩き、さまようことで、自分が一個の眼となり、空虚なものとなる。それは街そのものであり、どこにもいないことである。あるのは言葉だけ。赤いノートに記され言葉だけがあり、小説がある。最後にアフリカから帰ってくるというポール・オースターの友人である「私」がクインの赤いノートから、この小説「ガラスの街」を書いたとされるのだが、そもそもその「私」とは誰なのか。ポール・オースターなのか、クインなのか、ウィリアム・ウィルソンなのか、それとも別の誰かなのか、よくわからない。作家とは誰でもない誰かであり、虚ろな存在でしかない。そしてそれは、私たちもまた、誰でもない誰かになりうるし、虚ろな存在であるということでもあるのだ。
スポンサーサイト