「21グラム」アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、最近観た『あの日、欲望の大地で』のギジェルモ・アリアガ監督の脚本というこの作品、未見だったのでDVDで見ました。
まるでパズルのような時間軸の断片をつなぎ合わせて見せていく手法は、ギジェルモ・アリアガお得意のお話展開。この作品はその手法が際立っている。時間は自在に前後して入り乱れ、見る側を混乱に陥れつつ、逆に物語の興味を引き寄せる。いったい何が起きているのか?何がこの血だらけの男たちや女たちに起きているのか?
「それでも人生は続く・・・」と何度か台詞であったように、生と死の境をさまよう登場人物たちのたった21グラムの魂の重さの違いは、何を意味しているのだろうか?悲劇的・運命的な人と人との結びつき、数学教授のショーン・ペンが数学に喩えて、この運命的な出会いを語るシーンがあったが、やや強引ともいえるこの人物関係は、ひたすら生と死の運命の差を描きたいがためだ。
誰もがぎりぎりの生と死の境目をさ迷っている。ドラッグに溺れていたナオミ・ワッツは、幸せな結婚をしたが、愛する夫と子供たちを事故で失い、再び生の地獄へと向かう。犯罪を重ねていたベニチオ・デル・トロは、神に救いを見出すも、神に与えられし幸運のトラックで、不幸なる事故を起こし、再び彼もまた地獄へ。彼には罪を背負って死ねないという地獄が続くのだ。さらに病気の死の淵から心臓移植で救われたショーン・ペンは、つかの間の生を得るも、再び心臓の機能は衰え、ラストは自らの心臓を撃ち抜く。妻のシャルロット・ゲンズブールは、人工授精で子供を孕み、ラストではナオミ・ワッツもまた運命の子を孕む。心臓移植や人工授精などの現代的な道具立てを使いながら、死と生が瞬間のうちに入れ替わるその差を描いている。それは幸福と不幸の入れ替わりでもあり、死から生へ、生から死への反転とその運命のわずかな違いこそがテーマだ。
しかしながら、やや作為的な展開となったこの物語は、ショーン・ペンがナオミ・ワッツと関係を持つまでに至る心理過程が弱い。心臓提供者を知り、その不幸な事故を知り、彼女に近づくぐらいは理解できても、彼女と恋愛関係にまで発展するプロセスに無理がある。いくら自らの死を悟ったとしても、彼女への憐れみから恋愛へ、さらには犯人への復讐の役割を果たそうとするまでの彼の思いについていけない。だからラストの彼女の復讐の殺しを止めさせるための自らの心臓を撃ち抜く悲劇も、あまり響いてこない。
いや、この映画は最初からそんな感情移入は求めていない。そもそも時間軸がめちゃくちゃなのだから。観客は運命の悲劇とその生と死のぎりぎりの反転の皮肉を感じ取るだけだ。生きることと死ぬことの差。生き続けることと死ねないこと、人の死と自分の生の交換、そして自らに子を宿し、生を生み出すこと。それらの生と死の営みの運命と不条理。それでも時間は過ぎ去り、人生は続くのだ。
妻のシャルロット・ゲンズブールは、子供を産むことにこだわり続ける。子供を産みさえすれば、やっていける・・・と。子供を産むことで、未来への時間を紡ぎ出せる女性、そんな母なる大地から切り離されて、根無し草にように生と死の狭間を彷徨い続ける男。そんな男と女との決定的な差を描きたかったのかもしれない。
☆☆☆3
(ニ)
2003年/アメリカ 原題: 21 GRAMS
監督、製作:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
撮影:ロドリゴ・プリエト
編集:スティーヴン・ミリオン
出演:ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ、シャルロット・ゲンズブール、メリッサ・レオ、
クレア・デュヴァル
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